えて丘の周囲の景色を見ながら、その素晴しい見晴に就いて何か盛んに説明を聞き始めた。
 一方大月は、考え込みながらぶらぶらと歩き続けていたが、ふと立止ると、屈み込んで、何か小さなものを芝草の間の土の中から拾い上げた。それは黒く薄い板っぺらの様な小片で、暫くそれを見詰めていた大月は、軈てその品をコッソリとポケットの中へ入れて、深く考える様に首を傾げながら立上った。
 そして間もなく大月は、秋田と証人を誘って、丘を降りて行った。
 夕方近くの事で、流石《さすが》に寒い風がドス黒い海面を渡って吹き寄せて来た。もう時間も遅いし、それに直介の死亡に依る大月の当面の仕事は、まだ全然手が付けてないので、東京へは明朝夫人と一緒に引挙げる事にして、二人とも別荘の客室へ一泊する事になった。
 梟山の検証で、推理がハタと行詰ったかの様にあれなりずっと思索的になって了った大月は、それでも夕食時が来てホールで三人が食卓に向うと、早速夫人へ向けて切り出した。
「少し変な事をお訊ねする様ですけれど、花束の虫――と言う言葉に就いて何かお心当はないでしょうか?」
「まあ――」夫人は明かに驚きの色を表わしながら、「どうして又、そんな事をお訊ねになりますの。『花束の虫』と言うのは、何でも上杉逸二さんの書かれた二幕物の脚本だそうですけれど……」
「ははあ。成程《なるほど》。――して、内容は?」
「さあ。それは、一向に存じないんですけれど……何でもそれが、今度瑪瑙座の創立記念公演に於ける上演脚本のひとつであると言う事だけは、昨晩主人から聞かされておりました。昨日上杉さんが別荘《こちら》をお訪ね下さった時に、主人にその脚本をお渡しになったので、そんな事だけは知っているので御座居ます」
「ああ左様ですか。すると御主人は、まだ今日迄その脚本をお読みになってはいなかったんですね?」
「さあ。それは――」
「いや、よく判りました。御主人が今朝の散歩にそれを持って梟山へお出掛けになっている以上、まだお読みになってはいなかったんでしょう……」
 大月はそう言って、再び考え込みながら、アントレーの鳥肉を牛の様に噛み続けた。
 軈て食事が終ると、夫人がむいて呉れる豊艶な満紅林檎を食べながら、遺産の問題やその他差当っての事務に関して大月は夫人と相談し始めた。
 秋田は、ふと、先程丘の上で大月の下した犯人は左利きであると言う断案を思い出した。そして何か英雄的《ヒロイック》なものを心に感じながら、コッソリと夫人の手許を盗み見た。が、勿論夫人は左利きではなかった。
 翌朝――。
 それでも昨晩に較べると大分元気づいたらしい大月は、朝食を済ますとこの土地を引き上げる迄にもう一度単身で昨日の丘へ出掛けて行った。そして崖の頂へ着くと再び昨日よりも厳重な現場の調査をしたり、靴跡の複写《コピー》を取ったりした。が、それ等の仕事が済むと、気に掛っていた仕事を済した人の様に、ホッとして別荘へ戻って来た。
 そして間もなく、大月、秋田、比露子夫人の三人は、銚子駅から東京行の列車に乗り込んだ。
 車中大月はこの犯罪は、大変微妙なものであるが、もう大体の見透はついたから、茲一両日の内には大丈夫犯人を告発して見せると言う様な事を、自信ありげな口調で二人に語り聞かせた。が、何故どうしてそうなるとか、詳しい話を聞かせて呉れないので、秋田は内心軽い不満と不審に堪えられなかった――。

     三

 屏風浦を引上げて、大月と秘書の秋田が丸《まる》の内《うち》の事務所《オフィス》へ帰ったのは、その日の午後二時過ぎであった。
 事務所には、二人が一日留守をした間に、もう新しい依頼事務が二つも三つも舞い込んで、彼等を待っていた。昨日の屏風浦訪問以来、大月の言う事なす事にそろそろ不審を抱かせられてうんざりしていた秘書の秋田は、それでも極めて従順に、どの仕事から調べかかるか、と言う様な事を大月に訊《たず》ねて見た。が、それにも不拘《かかわらず》大月は、もう一度秋田を吃驚《びっくり》させる様な不審な態度に出た。全く、それは奇妙な事だった。
 ――銚子から帰って二時間もしない内に、新しい書類の整理をすっかり秋田に任せた大月は、築地《つきじ》の瑪瑙座の事務所を呼び出して、暫く受話器を握っていたが、軈て通話が終ると、何思ったのかついぞ着た事もないタキシードなどを着込んで、胸のポケットへ純白なハンカチを一寸折り込むと、オツにすましてその儘夕方の街へ飛び出して了ったのだ。
 歳柄もなく口笛などを吹きながらさっさとアスファルトの上を歩き続けて行った大月は、銀座《ぎんざ》裏のレストランでウイスキーを一杯ひっかけると、それからタクシーを拾ってユニオン・ダンス・ホールへやって来た。そして其処で、昔習い覚えた危い足取で古臭いワルツを踊り始めた。――が、それも二十分としない内に其処を飛び出すと、再びタクシーに乗り込んで、意勢《いせい》よくこう命じた。
「日米・ホールへ!」
 それから、次に、
「国華・ホール!」
 ――そんな風にして、ざっと数え上げると、ユニオン、日米、国華、銀座、フロリダと、都合五つの舞踏場《ホール》を踊り回った大月は、最後のフロリダで若い美しい一人のダンサーを連れ出すと、その儘自動車を飛ばして丸の内の事務所へ帰って来た。
 いつもならばもう仕事を終って帰っている秋田も、流石に今日は居残っていた。そして、不意に若い女などを連れて帰って来た大月を見ると、もう口も利けない位いに驚《おどろ》いて了った。
 が、そんな事には一向に無頓着《むとんちゃく》らしく、帰って来た大月は、秋田に一寸微笑して見せただけで、直ぐ隣室へその女を連れ込むと、間の扉をピッタリ閉めて了った……。
 そして、おお、呆然《ぼうぜん》として了った秋田の耳へ、軈て、狂躁なジャズの音が、軽いステップの音と一緒に、隣室から聞え始めて来た。
 全く、「先生」のこんな態度に出会ったのは、今日が初めてであった。秋田はもう書類の整理どころではなくなった。ともすると、鼻の先がびッしょり汗ばんで、眩暈《めまい》がしそうになるのを、ジッと耐えて、事務卓《デスク》に獅噛《しが》みついていた。が、それでも段々落着くに従って、彼の脳裡に或るひとつの考えが、水の様に流れ始めた……
 ――ひょっとすると、この女が、あの梟山の海水靴の女ではないだろうか? そして、先生が……だが、そうすると、一体この騒ぎは何になる……いや、これには、何か深い先生のたくらみがあるに違いない。そうだ。兎に角この女を逃してはならない。犯人を茲迄引き寄せて、この儘逃したとあっては面目ない。先生の先刻の、あの意味ありげな微笑は、確に自分の援助を求めた無言の肢体信号《ポーズ・サイン》なのだ――。
 やっと茲迄考えついた秋田は、ふと気付くと、もうどうやら隣室の騒ぎも済んだらしく、いつの間にかジャズの音は止んで、只、低い囁く様な話声が聞えていた。が、軈てそれも終ると、どうやら人の立上ったらしい気配がして衣摺《きぬずれ》の音がする。で、急にキッとなった彼は、椅子から飛上ると、扉の前へ野獣の様に立開《たちはだか》った。
 と、不意に扉が開いて、大月の背中が現れた。そして、そのタキシードの背中越しに、若い女の艶しい声で、
「まあ、いけませんわ。こんなに戴いては……」
 すると大月は、それを両手で押えつける様にして、それから秋田の方を振向きながら、
「君。――何と言う恰好をしているんだ。さあ、お客様のお帰りだ。其処をお通しし給え」
 そこで秋田は、眼を白黒させながら、思わず一歩身を引いた。
「ほんとに済みませんわ。――じゃあ、又どうぞ、お遊びにいらして下さいな」
 そう言って若い女は、媚《こび》を含んだ視線をチラッと大月へ投げると、秋田には見向きもしないで、到頭その儘出て行って了った。
 大月は自分の椅子へ腰を下ろすと、さも満足そうにウエストミンスターに火を点けた。
 秋田はどうにも堪らなくなって、到頭大月の側へ腰掛けた。そして、
「一体、どうしたと言うんですか?」
「別に、どうもしやしないさ。が、まあ、兎に角、これからひとつ説明しよう」
 そう言って大月は、内ポケットへ手を突込むと、昨日屏風浦の断崖の上で拾った、例の黒く薄い板っぺらの様な小片を取出した。
「これ何んだか、勿論判るだろう? よく見て呉れ給え」
「……何んですか。――ああ。レコードの缺片《かけら》じゃありませんか。これが、一体どうしたと言うんですか?」
「まあ待ち給え。その隅の方に、金文字で、少しばかり字が見えるね」
「ええ。判ります。……arcelona《アルセロナ》――として、Victor《ビクター》・20113――とあります。それから、……チ・フォックストロット――」
「そうだ。その字の抜けているのは、勿論、あの、踊りのバルセロナの事だ。そして、もうひとつの方は、マーチ・フォックストロットだ――ところで、君は、時々ダンスを嗜《たしな》まれる様だが、その踊り方を知ってるかね? その、マーチ・フォックストロットと言《いう》奴《やつ》をだね」
 秋田は、図星を指されて急に顔を赤らめた。が、軈て仕方なさそうに、
「二三度名前だけは聞いた事がありますが、僕はまだ習い始めですから、全然踊り方は知らないです」
「ふむ、そうだろう。――実は、僕も知らなかった。が、いま帰って行かれたあの若いお客さんから得た知識に依ると、何でもこのダンスは、四五年前に日本へ伝ったもので、普通に、シックス・エイトって言われているそうだ。欧州では、スパニッシュ・ワンステップと呼ばれているものだよ。そしてその名称の示す様に、このダンスのフィギュアーと言うか、つまりステップの型だね。それは非常に強調な、人を激励する様な、ワンステップ風のものなんだ。――ところで、これを君は、何だと思う」
 大月はそう言って、一枚の紙片を秋田の前に拡げて見せた。秋田は、それを一寸見ていたが、直ぐに、幾分得意然として、
「――判ります、つまりこれが、そのマーチ・フォックストロットのステップの跡、と言うか、足取りの跡を、先生が図にしたものなんでしょう」
 すると大月は笑いながら、
「――ウッフッフッフッフッフッ……まあ、そうも言える。が、そうも言えない」
「と言うと――」
 秋田は思わず急き込んで訊ねた。
「つまり、スパニッシュ・ワンステップの足取りであると同時にだね。いいかい。もうひとつ別の……何かなんだよ」
「別の――※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「他でもない。屏風浦の断崖の上の、あの素晴しい格闘の足跡なんだ!」
 ――秋田は、蒼くなって了った。

     四

 自分の鋭い不意打の決断に、すっかり魂消《たまげ》て了った秋田の顔を見ながら、ニコニコ微笑していた大月は、軈て、煙草の煙を環に吹きながらポツリポツリと言葉を続けた。
「――勿論、最初、あの取り乱れた足跡を見た時には、僕も、異議なくあれが争いの跡であると信じ切っていたよ。だが、僕は、君があの証人と何か話合っている間に、あの芝草の中から、こ奴《いつ》を、このレコードの缺片《かけら》を、拾い上げたんさ。それから急に、僕が鬱《ふさ》ぎ込んで了ったのを、君は大分不審に思っていた様だったね。だが、実を言うと、あんな田舎の丘の上で、而も殺人の現場で、オヨソその場面と飛び離れた蓄音器のレコードの缺片などを拾い込んだ僕の方が、君よりも、どれだけ不審な思いをしたか判らないよ。而もこの小片は、よく見ると、あの喧嘩の靴跡の内の、芝草の生際《はえぎわ》に一番近い女の靴跡の下敷になっていたんだよ。つまり海水靴の踵に踏み付けられた様になって、割れてからまだ間もない様な綺麗な顔を、砂の中から半分覗かせていたんだよ。――僕は、考えた。晩迄考えた。そして到頭、その謎を解いて了ったんだ。――新時代の生活者である岸田夫妻の別荘の近くに、こ奴が転っていたのに不思議はないとね。つまり、あの丘の見晴しのいい頂の上で、よしんばそれが直介氏であろうと、比露子夫人であろうと、或は又、その他の誰れであろう
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