花束の虫
大阪圭吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)岸田直介《きしだなおすけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)以前|飯田橋舞踏場《いいだばしホール》で
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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一
岸田直介《きしだなおすけ》が奇怪な死を遂げたとの急報に接した弁護士の大月対次《おおつきたいじ》は、恰度《ちょうど》忙しい事務もひと息ついた形だったので、歳若いながらも仕事に掛けては実直な秘書の秋田《あきた》を同伴して、取るものも不取敢《とりあえず》大急ぎで両国《りょうごく》駅から銚子《ちょうし》行の列車に乗り込んだ。
岸田直介――と言うのは、最近東京に於て結成された瑪瑙座《めのうざ》と言う新しい劇団の出資者で、大月と同じ大学を卒《お》えた齢若い資産家であるが、不幸にして一人の身寄《みより》をも持たなかった代りに、以前|飯田橋舞踏場《いいだばしホール》でダンサーをしていたと言う美しい比露子《ひろこ》夫人とたった二人で充分な財産にひたりながら、相当に派手《はで》な生活を営んでいた。もともと東京の人で、数ヶ月前から健康を害した為|房総《ぼうそう》の屏風浦《びょうぶがうら》にあるささやかな海岸の別荘へ移って転地療養をしてはいたが、その後の経過も大変好く最近では殆《ほとん》ど健康を取戻していたし、茲《ここ》数日後に瑪瑙座の創立記念公演があると言うので、関係者からはそれとなく出京を促されていた為、一両日の中に帰京する筈になっていた。が、その帰京に先立って、意外な不幸に見舞われたのだ。――勿論《もちろん》、知己と迄言う程の深いものではなかったが、身寄のない直介の財産の良き相談相手であり同窓の友であると言う意外に於《おい》て、だから大月は、夫人から悲報を真っ先に受けたわけである。
冬とは言え珍らしい小春日和で、列車内はスチームの熱気でムッとする程の暖さだった。銚子に着いたのが午後の一時過ぎ。東京から銚子|迄《まで》にさえ相当距離がある上に、銚子で汽車を降りてから屏風浦付近の小さな町迄の間がこれ又案外の交通不便と来ている。だから大月と秘書の秋田が寂しい町外れの岸田家の別荘へ着いた時には、もうとっくに午後の二時を回っていた。
この付近の海岸は一帯に地面が恐ろしく高く、殆ど切断《きりた》った様な断崖で、洋風の小さな岸田家の別荘は、その静かな海岸に面した見晴の好い処に雑木林に囲まれながら暖い南風を真面《まとも》に受ける様にして建てられていた。
金雀児《えにしだ》の生垣に挟まれた表現派風の可愛いポーチには、奇妙に大きなカイゼル髭を生した一人の警官が物々しく頑張っていたが、大月が名刺を示して夫人から依頼されている旨を知らせると、急に態度を柔げ、大月の早速の問に対して、岸田直介の急死はこの先の断崖から真逆様に突墜《つきおと》された他殺である事。加害者は白っぽい水色の服を着た小柄な男である事。而《しか》も兇行の現場を被害者の夫人と他にもう二人の証人が目撃していたにも不拘《かかわらず》いまだに犯人は逮捕されない事。既にひと通りの調査は済まされて係官はひとまず引挙げ屍体は事件の性質上一応千葉医大の解剖室へ運ばれた事。等々を手短かに語り聞かせて呉れた。
軈《やが》てカイゼル氏の案内で、間もなく大月と秋田は、ささやかなサロンで比露子夫人と対座《たいざ》した。
悲しみの為か心なしやつれの見える夫人の容貌《かお》は、暗緑の勝ったアフタヌーン・ドレスの落着いた色地によくうつりあって、それが又二人の訪問者には甚《たま》らなく痛々しげに思われた。こんな時誰でもが交す様なあの変に物静かなお定《きま》りの挨拶が済むと、瞼をしばたたきながら、夫人は大月の問に促されて目撃したと言う兇行の有様に就いて語り始めた。
「――順序立てて申上げますれば、今朝の九時頃で御座居ました。朝食を済まして主人は珍しく散歩に出掛けたので御座居ます。今日は朝からこの通りの暖さで御座居ますし、それに御承知の通り近頃ではもう直介の健康もすっかり回復いたしまして実は明日帰京する様な予定になっていましたので、お名残の散歩だと言う様な事をさえ口にして出て行きました程で御座居ます。女中は、予《あらかじ》め本宅の方の掃除から、その他の色々の仕度をさせますので、妾《わたし》達より一足先に今朝早く帰京させました為、主人の外出しました後は、妾一人で身回りの荷仕度などしていたので御座居ます。ところが十時過ぎてもまだ主人が戻りませんのでその辺を探しがてら町の運送屋迄出掛けるつもりで家を出たので御座居ます。一寸、あの、お断りいたしておきますが、御承知の通りこの辺一帯の海岸は高い崖になっておりまして、此処から凡《およ》そ一丁半程の西に、一段高く海に向って突出した普通に梟山《ふくろやま》と呼ぶ丘が御座居ます。恰度妾が家を出て二三十歩き掛けた頃で御座居ました。雑木林の幹と幹との隙間を通じて、梟山の断崖の上でチラリと二人の人影が見えたのです。何分遠方の事で充分には判り兼ねましたが、ふと何気なく注意して見ますと、その一人は外ならぬ主人なので御座居ます。が、他の一人は主人よりずっと小柄の男で、も一人の証人が申される通り水色の服をきていた様で御座居ますが、これが一向に見覚えのない、と申しますより遠距離で容貌その他の細かな点が少しもハッキリ見えないので御座居ます。妾は立止った儘《まま》ジッと目の間から断崖の上を見詰めていました。――すると、突然二人は争い始めたので御座居ます。そして……それから……」
夫人はフッと言葉を切ると、そのまま堪え兼ねた様に差俯向《さしうつむ》いて了《しま》った。
「いや、御尤《ごもっとも》です。――すると、兇行の時間は、十時……?」
大月が訊《たず》ねた。
「ええ。ま、十時十五分から二十分頃迄だろうと思います。何分、不意に恐ろしい場面を見て、すっかり取のぼせて了いましたので――」
恰度この時いつの間にかやって来た例のカイゼル氏が、二人の会話に口を入れた。
「――つまり奥さんは、もう一人の証人である百姓の男に助けられる迄は、その場で昏倒《こんとう》していられたんです」
で、大月はその方へ向き直って、
「すると、その百姓の男と言うのは?」
「つまり奥さんと同じ様に、兇行《きょうこう》の目撃者なんですがな。――いや、それに就《つ》いて若し貴方がなんでしたなら、その男を呼んであげましょう。……もう、一応の取調べはすんだのだから、直ぐ近くの畑で仕事をしているに違いない」
親切にもそう言って警官は出て行った。
大月は、それから夫人に向って、この兇行の動機となる様なものに就いて、何か心当りはないか、と訊ねた。夫人はそれに対して、夫は決して他人に恨みを買う様な事はなかった事。又この兇行に依って物質的な被害は受けていない事。若しそれ等以外の動機があったとしても、自分には一向心当りがない事。等々を答えた。
軈て十分もすると、先程の警官が、人の好さそうな中年者の百姓を一人連れて来た。
大月の前へ立たされたその男は、まるで弁護士と検事を勘違いした様な物腰でぺこぺこ頭を下げながら、素朴な口調で喋り出した。
「――左様で御座居ます。手前共が家内と二人でそれを見ましたのは、何でも朝の十時頃で御座居ました。尤も見たと言いましても始めからずうと見ていたのではなく、始めと終りと、つまり二度に見たわけで御座居ます。始め見たのは殺された男の方が水色の洋服を着たやや小柄な細っそりとした男と二人で梟山の方へ歩いて行ったのを見たんで御座居ますが、何分手前共の仕事をしていました畑は其処から大分離れとりますし、それに第一あんな事になろうとは思ってませんので容貌《かお》やその他の細《こまか》な事は判らなかったで御座居ます」
「一寸、待って下さい」
証人の言葉を興味深げに聞いていた大月が口を入れた。
「その水色の服を着た男と言うのは、オーバーを着てはいなかったのですね。――それとも手に持っていましたか?」
そう言って大月は百姓と、それから夫人を促す様に見較べた。
「持っても着てもいませんでした」
夫人も百姓も同じ様に答えた。
「帽子は冠《かむ》っていましたか?」
大月が再び訊ねた。この問に対しては百姓は冠っていなかったと言い、夫人は良くは判らなかったが若《も》し冠っていたとすればベレー帽だろう、と述べた。すると百姓が、
「や、今思い出しましたが、その時、殺されたこちらの旦那は、小型の黒いトランクを持っていられました」
「ほう。――」大月はそう言って夫人の方を見た。夫人は、そんなものを持って直介が散歩に出た筈はないし、又全然吾々の家庭には黒いトランクなどはない、と答えた。
「成程、では、貴方《あなた》が二度目に二人を見られた時の事を話して下さい」
大月に促されて、再び証人は語り続けた。
「――左様で御座居ます。二度目に見ましたのはそれからほんの暫く後で御座居ましたが、急に家内の奴が海の方を指差しながら手前を呼びますので、何気なくそちらを見ると、雑木林の陰になってはっきりとは判らなかったので御座居ますが、こちらの奥さんも仰有《おっしゃ》った通り、梟山の崖ッ縁で、何でも、こう、水色の服を着た男がこちらの旦那に組付いて喧嘩してたかと思うと、間もなくあっさり[#「あっさり」に傍点]と旦那を崖の下へ突墜《つきおと》して、それから一寸《ちょっと》まごまごしてましたが、例の黒いトランクを持って雑木林の中へ逃げ込んで行きました。――直ぐその後を追馳《おいか》けて行けば、屹度《きっと》どんな男か正体位は見届ける事も出来たで御座居ましょうが、何分不意の事で手前共も周章《あわて》ておりましたし、それに何より突墜された人の方が心配で御座居ましたんで、真っ先に一生懸命崖の下の波打際へ降りたんで御座居ます。するともう墜された人は息絶《こときれ》ていたし、手前共二人だけでは迚《とて》もあのえらい[#「えらい」に傍点]崖の上迄仏様を運び上げる事は出来ませんので、兎《と》に角《かく》この事を警察の旦那方に知らせる為に、仕方なくもう一返苦労して崖を登り、町へ飛んで行ったんで御座居ます。その途中、直ぐ其処の道端で、気を失って倒れていられたこちらの奥さんを救けたんで御座居ます。――はい」
証人は語り終って、もう一度ぴょこんと頭を下げた。
大月は巻煙草《シガレット》を燻《くゆ》らしながら、恰《あたか》もこの事件に対して深い興味でも覚えたかの如く、暫くうっとりとした冥想に陥っていたが、軈て夫人に向って、
「御主人が御病気でこの海岸へ転地されてからも、勿論|別荘《こちら》へは訪問者が御座居ましたでしょうな?」
「ええ、それは、度々《たびたび》に御座居ました。でも、殆ど今度出来ました新しい劇団の関係者ばかりで御座居ます」
「ははあ。瑪瑙座の――ですな。で、最近は如何でしたか?」
「ええ。三人程来られました。やはり劇団の方達です」
「その人達に就いて、もう少し伺えないでしょうか?」
「申上げます。――三人の内一人は瑪瑙座の総務部長で脚本家の上杉逸二《うえすぎいつじ》さんですが、この方は確か三日前東京からおいでになり、今日迄ずっと町の旅館に滞在していられました。別荘《たく》へは昨日、一昨日と、都合二度程来られましたが二度共劇団に関するお話を主人となさった様です。後の二人は女優さんで、中野藤枝《なかのふじえ》さんに堀江時子《ほりえときこ》さんと申されるモダーンな美しい方達ですが、劇団がまだ職業的なものになっていませんのでそれぞれ職業なり地位なりをお持ちでしょうが、それ等の詳しい事情は妾は存じないので御座居ます。この方達は、昨日、やはり町の旅館の方へお泊りになって、別荘《たく》へも昨晩一度御挨拶に来られましたが、今日、上杉さんと御一緒に帰京されたそうで御座居ます。二人とも上
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