杉さんとはお識合《しりあい》の様に聞いております」
「すると、その三人の客人達は、今日の何時頃に銚子を発《たた》れたのですか?」
 大月の質問に、今度はカイゼル氏が乗り出した。
「それがその、調べて見ると正午の汽車で帰京しているんです。勿論《もちろん》、兇行時間に約一時間半の開きがありますし、各方面での今迄の調査に依れば、他に容疑者らしい人物がこの町へ這入った形跡は殆どないし、尚旅館の方の調査の結果、彼等は三人とも各々バラバラで随分勝手気儘な行動をしていたらしく、殊《こと》に上杉などは完全な現場不在証明《アリバイ》もない様な次第ですから、当局にしても一応の処置は取ってあります。――ところが、証人の陳述に依る加害者の風貌と、調査に依る上杉逸二の風貌とは、大変違うんです。つまり上杉は、被害者の岸田さんなどよりもまだ背の高い男なんです。だから、その意味で、上杉へ確実な嫌疑を向ける事は結局出来なくなるのです。――」
 茲で警官は、捜査の機密に触れるのを恐れるかの様に、黙り込んで了った。
 大月は秘書の秋田を顧みながら、内心の亢奮を押隠すかの様な口調で静かに言った。
「兎《と》に角《かく》、一度、その断崖の犯罪現場へ行って見よう」

     二

 殆ど一面に美しい天鵞絨《ビロード》[#「天鵞絨」は底本では「天鷲絨」]の様な芝草に覆われ、処々に背の低い灌木の群を横《よこた》えたその丘は、恰度《ちょうど》木の枝に梟が止った様な形をして、海に面した断崖沿いに一段と嶮《けわ》しく突出していた。遠く東の海には犬吠《いぬぼう》が横わり、夢見る様な水平線の彼方を、シアトル行きの外国船らしい白い船の姿が、黒い煙を長々と曳いて動くともなく動いていた。
 到頭《とうとう》本来の仕事よりもこの事件の持つ謎自身の方へ強くひかれて了ったらしい大月と、それから秘書の秋田は、間もなく先程の証人の男に案内されて、見晴の良いその丘の頂へやって来た。
 証人は海に面した断崖の縁を指差しながら、大月へ言った。
「あそこに喧嘩の足跡が御座居ます。――警察の旦那方が見付けましたんで」
 そこで彼等はその方へ歩いて行った。歩きながら大月が秘書へ言った。
「ね、君。考えて見給《みたま》え随分非常識な話じゃないかね。――いくら今日は暖かだったからって、不自然にもそんな白っぽい水色の服など着て、オーバーもなしでいたと言う犯人は、どうも今日ひょっこり遠方からこんな田舎へやって来た人間じゃあないね。僕は、屹度《きっと》犯人はこの土地で、少くとも服装を自然に改め得る位い以上の余裕ある滞在をした男だ、と考えるよ。そしてその男は、少くともあの場合、黒いトランクを平気でその持主でもない岸田氏に持たせて歩かす事の出来る人間だよ。つまり、極めて常識的に考えて見て、そんな事の出来る人間は岸田氏の親しい同輩か、或は広い意味で先輩か、それとも、そうだ。婦人位いのものじゃあないか――。次にもうひとつ、証言に依ると犯人は岸田氏より小柄で細っそりしていたとあるが、病上りとは言え相当体格のある岸田氏に組付いて、格闘の揚句あっさり[#「あっさり」に傍点]岸田氏を崖の下へ突墜して了ったと言うからには、子供の喧嘩じゃあないんだから、何か其処に特種な技でもない限り、犯人は柄の割に腕の立つ、少なくとも被害者と対等以上の実力家である事だけは認めなけりゃならないね」
 と、黙って歩いていた証人が口を入れた。
「いや、全くその通りで御座居ます。あの方が崖から突墜される瞬間だけは、手前もよく覚えておりますが、それは全く簡単な位いに、……こう、……ああ、これだ。これがその喧嘩の足跡で御座居ます」
 そう言いながら証人は、急に五六歩前迄馳け出して立止り、地面の上を指差《ゆびさし》ながら二人の方へ振り返った。
 成程彼の言う通り、殆ど崖の縁近く凡そ六坪位いの地面が、其処許《そこばか》りは芝草に覆われないで、潮風に湿気を帯《ふく》んだ黒っぽい砂地を現わしていた。砂地の隅の方には、格闘したらしい劇《はげ》しい靴跡が、入乱れながら崖の縁迄続いている。よく見ると、所々に普通に歩いたらしい靴跡も見える。そしてそれ等の靴跡を踏まない様に取りまいて、警官達のであろう大きな靴跡が幾つも幾つも判で捺した様についている。
 大月は争いの跡へ寄添って見た。
 大きな靴跡は直介のもので、薄く小さいのが犯人の靴跡だ。二種《ふたいろ》の靴跡は、或は強く、或は弱く、曲ったり踏込んだり、爪先を曳摺《ひきず》る様につけられたかと思うとコジ曲げた様になったりしながら、激しく入り乱れて崖の縁迄続いている。そうして、崖の縁で直介の靴跡は消えて了い、その代りに角の砂地がその上を重い固体の墜ちて行った様に強く傷付けられている。下は、眼の眩む様な絶壁だ。
 大月はホッとして振返ると、今度は逆にもう一度靴跡を辿り始めた。が、二種の靴跡が普通に歩いている処迄来ると、小首を傾げながら屈み込んで、其処に比較的ハッキリと残されている犯人の靴跡へ、注意深い視線を投げ掛けていた。が、軈て顔を上げると、
「ふむ。こりゃ面白くなって来た」と、それから証人に向って、不意に、「貴方は確かに犯人は男だ、と言いましたね。――ところが、犯人は女なんですよ。――」
 秋田も証人も、大月の意外な言葉に吃驚《びっくり》して了った。二人は言い合わした様に眼を瞠《みは》りながら、靴跡を覗き込んだ。が、勿論二人の眼には、どう見てもそれは踵《かかと》の小さいハイ・ヒールの女靴の跡ではなく、全態の形こそ小さいが、明かに男の靴跡としか見られない。秋田は、大月の言葉を求める様にして顔を上げた。すると大月は、静かに微笑みながら、
「判らないかね。――じゃあ言って上げよう。ひとつ、よくこの靴跡を観察して御覧。すると先ず第一に、誰れにでも判る通りこの靴跡は非常に小さいだろう。第二に、靴の小さい割に爪頭と踵との間隔――つまり土つかず[#「土つかず」に傍点]が大きいだろう。そして第三に、これが一番大切な事なんだが、ほら、踵の処をよく御覧。底ゴムを打った鋲穴の窪みの跡が、こちらの岸田氏の靴跡にはこんなに良く見えるが、この靴の踵の跡には少しも見えないじゃあないか。ね。いいかい、君。靴に対する衛生思想が、一般に発達して来た今日では、オーヴァー・シューや、特殊な運動靴などを除く限り、殆んどどの男靴にも踵へ鋲穴のあるゴムが打ってあるんだよ。ところが、この靴にはその底ゴムを打ってない。而《しか》らばオーヴァー・シューか、と言うに、オーヴァー・シューにしては、子供のものでない限りこんな小さな奴はないし、又、運動靴などにしては、こんな大きな割合の土つかず[#「土つかず」に傍点]を持った奴はない。そして又オーヴァー・シューや運動靴の様な特種なものには、それぞれ特有なゴム底の凹凸なり、又は金属的な装置がある筈だ。そこで、僕は、この犯人の靴跡の個有《こゆう》の型状――例えば、全体に小さい事や、外郭《がいかく》の幅が普通の靴底のそれよりも遥かに平坦で細長い事や、土つかずの割合が大きくそして特異である事や、そして又、人間の足首で言うと恰度蹠骨尖端の下部に当る処なんだが、あの少女の履くポックリの前底部を一寸思い出させる様なこの靴跡の前の部の局部的な強い窪み方――。等々の総合的な推理からして、僕はこの靴を、一種の木靴――あの真夏の海水浴場で、熱い砂の上を婦人達が履いて歩く可愛い海水靴《サンダル》であると推定したんだ。そして、少なくともその海水靴の側面は、美しい臙脂《えんじ》色に違いない――。何故って、ほら、これを御覧」
 そう言って大月は、靴跡の土つかずの処から、その海水靴が心持強く土の中へ喰入った時に剥げ落ちたであろう極めて小さな臙脂色の漆の小片を拾い上げて、二人の眼の前へ差出した。そして、
「勿論、こんなにお誂《あつら》え向きに漆が剥げ落ちて呉れる様では、その海水靴ももう相当に履き古されたものに違いないが、ここで僕は、去年の夏辺りどこかの海水浴場で、その海水靴と当然同時に同じ女に依って用いられたであろうビーチ・パンツとビーチ・コートを思い出すんだ。そして而もそれらの衣服の色彩は、派手な水色《ペイルブリユー》であった、とね。だが茲で、或は君は、若しも男が、犯人は女であると見せかける為に、そんな婦人用の海水靴を履いたのだとしたならどうだ、と言う疑いを持つかも知れない。が、而し、それは明かに間違っている。何故ならば、若しも犯人が男で、そしてそんな野心を持っていたのだったならば、その男は、一見男に見えるビーチ・パンツやビーチ・コートを着るよりも、当然、逆に、一見して婦人と思われるワンピースか何かの婦人服を着なければならない筈だからね。……いや、全く僕は、最初夫人の証言を聞いた時から、ひょっと[#「ひょっと」に傍点]こんな事じゃないかと思った位いだ。遠方から見てそれが男装であったと言うだけで、犯人を男であると断定するなど危険な話だよ。なんしろ海のあちらじゃ女の子の男装が流行ってる時代なんだし、岸田氏を取巻く女達などは、ま、言って見れば日本のデイトリッヒやガルボなんだからね。――兎に角、若しも犯人が、夫人やこの証人の方の遠目を晦《くら》ます為にそんな奇矯な真似《まね》をしたのだとしても、今更そんな事を名乗って出る犯人などないんだから、まあ、直接の証拠をもっと探し出す事だよ」
 大月は再び熱心に靴跡を辿り始めた。
 軈て暫くして、靴跡が交錯しながら砂地から芝草の中へ消えているあたり迄来ると、再び二人の立会人を招いて、地上を指差しながら言った。
「林檎《りんご》の皮が落ちてるね。見給え」それから証人に向って、「警察の連中はこれを見落したりなどして行ったんですか?」
「さあ、――この付近に林檎の皮など落ちている位いは珍しい事じゃないですから、旦那方は知らずに見落したんじゃなかろうかと思いますが。何でも旦那方はそこいら中|細《こまか》に調べられて、あの雑木林の入口に散っていた沢山の紙切れなんども丁寧に拾って行かれた位いで御座居ます」
「紙切れを――?」
「へえ。何か書いた物をビリビリ引裂いたらしく、一寸見付からない様な雑木林の根っこへ一面に踏ン付ける様にして捨ててあったものです。手前が拾いました奴は、恰度その書物の書始めらしく、何でも――花束の虫……確かにそんな字がポツリと並んでおりました」
「ほほう。……ふうむ……」
 大月は暫くジッと考えを追う様にして眼をつむっていたが、軈て、
「ま、それはそれとして、兎に角この林檎の皮だ。勿論これは、警察で見捨《みすて》て行ったものだけに月並で易っぽいかも知れない。が而し決して偶然ここに落ちていたのではなくて、この犯罪と密接な関係を持っている。――つまり兇行が犯された当時に剥き捨てられたものなんだ。よく見て御覧。そら。この皮は、岸田氏の靴跡の上に乗っているだろう。そして一層注視すると、その又皮の上を半分程、それこそ偶然にも犯人の靴が踏み付けてるじゃないか。だからこの皮は、兇行当時前に捨てられたものでもなければ、兇行当時後に捨てられたものでもない。正に加害者と被害者の二人がこの丘の上で会合した時に剥き捨てられたものなんだ。そして、尚一層注意して見ると」大月は林檎の皮を拾い上げて、「ほら。剥き方は左巻きだろう。なんの事はない。よくある探偵小説のトリックに依って推理すると、この場合犯人は女だったのだから、林檎の皮を剥いたのは極めて自然に犯人であると見る。従って犯人は左利、と言う事になるわけさ。……だが、それにしても黒いトランクは何だろう? そして、岸田氏に組付いて、そんなにあっさり[#「あっさり」に傍点]と断崖から突墜す事の出来る程の体力を具えた女は、一体誰れだろう? そして又、『花束の虫』とは一体何を意味する言葉だろう?……」
 それなり大月は思索に這入って了った。そして腕組をしたまま再び靴跡の上を、アテもなく歩き始めた。秘書の秋田は大月の思索を邪魔しないつもりか、それとももうそんな仕種《しぐさ》に飽きて了ったのか、証人の男を捕
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