と、兎も角岸田家に関係のある誰れかが、手提蓄音器《ポータブル》を奏でて娯《たのし》んだとしても、何の不思議があろうとね。そして、そしてだ。このレコードの缺片や、それから又こ奴の落ちていた時の様子からして、僕は、誰れか彼処《あすこ》で、ダンスを踊っていたんじゃあないかと言う、極めて漠然とした、だが非常に有力な暗示にぶつかったんだ。そこで翌朝、つまり今朝だね。僕はもう一度あの丘を調べに出掛けたんだ。そして其処で僕は、はからずも、あの素晴しい足跡の中に、昨日それを見た時には全く単に荒々しい争いの跡でしかなかったその足跡の、いや靴跡の中に、どうだい、よく見ると、なにかしら或るひとつの、旋律《リズム》――と言った様なものがあるじゃないか。僕は思わず声を上げた。そして、そう思って見れば見る程、その事実は、益々ハッキリして来る。勿論《もちろん》、そんな六ヶ敷《むつかし》い、激しいステップのフィギュアーを持ったダンスを僕は知らなかった。だが、その時の僕に、それがダンスのステップの跡でないと、どうして断言出来よう。そしてそれと同時に、実に恐しい考えが、僕の頭の中でムクムクと湧上り始めたのだ。と、言うのは、その時に僕は、昨日別荘で、夫人の陳述した証言を思い出したんだ、――突然、二人は格闘を始めました。そして、曰々――と言った奴をね。ここんとこだよ。いいかい君。夫人は、同じその証言の中に於て、兇行当時あの断崖の上の人物を、一人は夫の直介であると見、又も一人は水色の服を着た小柄な男と言明している通りに、近視眼じゃあないんだよ。そして而も、思い出し給え。夫人は、岸田直介との結婚前に、飯田橋|舞踏場《ホール》のダンサーをしていたんだぜ。その比露子夫人《ひろこふじん》が、仮令《たとい》多少の距離があったにしろ、そして又、仮令もう一人の百姓の証人――彼はダンスのイロハも知らない素朴な農夫だ――が、そう言っているにしろ、ダンスをし始めるのと、喧嘩をし始めるのとを、見間違えるなんて事は、そのかみダンスでオマンマを食べていた彼女の申立として、断然信じられない話だ。そこで、僕は、夫人が虚偽の申立をしたのではないか、と言う、殆《ほとん》ど不可避的な疑惑にぶつかったものだ。同時にだ。逆に、この調子の強烈な、六ヶ敷そうな直介氏のダンスの相手《パートナー》として、曾《かつ》て職業的なダンサーであったところの比露子夫人を想像するのは、これこそ、最も尋常で、簡単な、だが非常にハッキリした強い魅力のある推理ではないか。――ところが、茲《ここ》に、僕の推理線の合理性を裏書して呉《く》れる適確な証拠があるんだ。君は、昨晩あの別荘の食堂で、夕食後比露子夫人が何気なく満紅林檎の皮を剥いて僕達に出して呉れたのを見ていたろう。そして勿論君は、その時、あの兇行の現場で僕が下した『犯人は左利である』と言う推定を思い出しながら、熱心に夫人の手元を盗み視たに違いない。ところが、夫人は左利ではなかった。そこで君は恰も自分の過敏な注意力を寧《むし》ろ嫌悪する様ないやな顔をして鬱ぎ込んで了《しま》った。――だが、決して君の注意力は過敏ではなかったのだ。それどころか、まだまだ観察が不足だと僕は言いたい。若しもあの時、君がもう少し精密な洞察をしていたならば、屹度《きっと》君は、驚くべき事実を発見したに違いないんだ。何故って、夫人は明かに右利で、何等の技巧的なわざとらしさもなく極めて自然に右手でナイフを使っていた。が、それにも不拘《かかわらず》、夫人の指間に盛上って来るあの乳白色の果肉の上には、現場で発見したものと全く同じ様な左巻の皮が嘲ける様にとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いているじゃないか。僕は内心ギクリとした。で、落着いてよく見る、……と。なんの事だ。実に下らん謎じゃあないか。問題は、ナイフの最初の切り込み方にあるんだ。つまり、普通果物を眼前に置いた場合、蔕《へた》の手前から剥き始めるのを、夫人の場合は、蔕の向う側から剥き始めるのだ。――勿論こんな癖は一寸珍らしい。が、吾々は現に昨晩別荘の食堂で、その癖が三つの林檎《りんご》に及ぼされたのを見て来ている。ありふれた探偵小説のトリックを、その儘《まま》単純に実地に応用しようとした僕は、全く恐ろしい危険を犯す処だったね。……ところで、この林檎の皮なんだが」大月はそう言って、いつの間に何処からか取り出した小さなボール箱の中から、大切そうに二|筋《すじ》の林檎の皮を取出しながら「この古い方は断崖の上の現場で、こちらは今朝別荘のゴミ箱から、それぞれ手に入れた代物だ。もう気付いたろうが、僕はこの艶のいい皮の表面から、同一人の左手の拇指紋を既に検出したんだ。――君。岸田直介の殺害犯人は比露子夫人だよ。さあ。これを御覧――」
その結果は、ここに記す迄《まで》もなかろう。軈て大月は、ニタニタ笑いながら立上ると、大胯に隣室へ這入って行った。そして、再び彼が出て来た時に、その右手に提げた品を一眼見た秋田は、思わずあっと叫んで立上って了った。
秋田が声を挙げたも道理、その品と言うのは、今朝三人が屏風浦の別荘を引挙げた時に、比露子夫人の唯一の手荷物であり、秋田自身で銚子駅迄携えてやった、あの派手な市松模様のスーツ・ケースではないか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
「別になにも驚くことはないさ。僕は只、夫人の帰京の手荷物がこのスーツ・ケースひとつであると知った時に、屹度この中に大切な犯人の正体が隠されているに違いないと睨んだ迄の事さ。だから僕は、銚子駅で、親切ごかしに僕自身の手でこ奴をチッキにつけたんだよ。夫人の本邸へではなく、内密で僕のこの事務所《オフィス》を宛名《アド》にしてね。――今頃は屹度岸田の奥さん、大騒ぎで両国駅へ、チッキならぬワタリをつけているだろうよ。只、君は、いつの間にこれが持ち込まれて、隣室の戸棚へ仕舞われたかを知らなかっただけさ」
そして笑いながら大月は、ポケットから鍵束を出して合鍵を求めると、素早くスーツ・ケースの蓋を開けた。
見ると、中には、目の醒《さ》める様な水色《ペイルブリユー》のビーチ・コートにパンツと、臙脂色の可愛い海水靴と、それから、コロムビアの手提蓄音器《ポータブル》とが、窮屈そうに押込まれてあった。
「じゃあ一体、『花束の虫』と言うのはどうなったんですか?」
秋田が訊ねた。大月は煙草に火を点けて、
「さあそれなんだがね、僕は最初その言葉を暗号じゃあないかと考えた。が、それは間違いで、『花束の虫』と言うのは、只単に、上杉の書いた二幕物の命題に過ぎないのだが、僕は、その脚本があの丘の上でジリジリに引裂かれていたと言う点から見て、岸田直介の死となにか本源的な関係――言い換えればこの殺人事件の動機を指示していると睨《にら》んだ。で、先程一寸電話で、瑪瑙座の事務所へ脚本の内容に就いて問い合わせて見た。するとそれは、一人の女の姦通《かんつう》を取扱った一寸暴露的な作品である事が判明した。ところが、事件に於て犯人である夫人は、明かに『花束の虫』を恐れていた。で、僕の疑念は当然夫人の前身へ注がれた訳だ。その目的と、もうひとつスパニッシュ・ワンステップの知識に対する目的とで、僕はあんな馬鹿げたホール回りをしたわけさ。――が、幸いにも、飯田橋華かなりし頃の比露子夫人の朋輩《ほうばい》であったと言う、先程のあのモダンガールを探し出す事の出来た僕は、計らずも彼女の口から、上杉逸二と比露子夫人とがそのかみのバッテリーであった事、そして又、夫人は案外にもあれでなかなかの好色家である事等を知る事が出来た。――で以上の材料と、僕の貧弱な想像力とに依って、最後に、犯罪の全面的な構図を描いて見るとしよう。……先ず比露子夫人は、岸田直介との結婚後、以前の情夫である上杉に依って何物かを――それは、例えば、恋愛の復活でもいいし、又何か他の物質的なものでもいい――兎に角強要されていた、と僕は考えたい。そして上杉は、その脅喝《きょうかつ》の最後の手段として、好色な夫人の現在の非行を暴露した『花束の虫』を、瑪瑙座に於ける新しい自分の地位を利用して、直介の処へ持って来たのだ。勿論、夫人は凡てを知っていた。そして、いま、裕福な自分の物質的な地位の上に刻々に迫ってくる黒い影を感じながら、この一両日の間と言うものは、どんなにか恐ろしい苦悩の渦に巻き込まれていた事だろう。其処では、恰度《ちょうど》イプセンのノラが、クログスタットの手紙を夫のヘルメルに見せまいとする必死の努力と同じ様な努力が、繰返されたに違いない。――だが、結果に於て夫人はノラよりも無智で、ヒステリカルであった。昨日の朝になって、多分夫人は、これ等の奇抜な季節違いの装束を身に着けると、『花束の虫』を読みたがる直介を無理に誘い出し、あの証人が黒いトランクと間違えたこの手提蓄音器《ポータブル》を携えて梟山へピクニックに出掛けたのだ。この場合僕は、あの兇行《きょうこう》をハッキリと意識して夫人はあんな奇矯[#「奇矯」は底本では「奇嬌」]な男装をしたのだと考えたくない。それは、犯罪前のあの微妙な変則的な心理の働き――謂《いわ》ば怯懦《きょうだ》に近い、本能的な用意、がそうさせたのだ。そして夫人は、絶えず『花束の虫』から直介の関心を外らす為に、努力しなければならなかった。――軈《やが》て、見晴のいいあの崖の上で、二人はダンスを踊り始めたのだ。あのうわずった調子の、情熱的なスパニッシュ・ワンステップをね。そして、その踊の、情熱の、最高潮に達した時に、今迄夫人の心の底でのたうち回っていた悪魔が、突然首を持上げたのだ。――茲《ここ》で君は、あの証人が、馬鹿にあっさり墜されたと言って不思議がっていた言葉を思い出せばいい。――それからの夫人は、完全に悪魔になり切って、もう恐れる必要もなくなった『花束の虫』を破り捨てると、手提蓄音器《ポータブル》を携《たずさ》えて直ぐに別荘へ引返したのだ。そして、最も平凡な犯罪者の心理で、あんな風に証人の一役を買って出た――と言うわけさ。……兎に角この手提蓄音器《ポータブル》を開けて見給《みたま》え。夢中になって踊っていた時に、誤って踏割ったらしいレコードの大きな缺片と、それから、先程一寸僕が拝借した、いずれも同じスパニッシュ・ワンステップのレコードが四五枚這入っているから――」
大月はそう語り終って、煙草の吸殻を灰皿へ投げ込むと、椅子に深く身を埋めながら、さて、夫人の犯罪に対する検事の峻烈な求刑や、そしてそれに対する困難な弁護の論法などをポツリポツリと考え始めた。
[#地付き](一九三四年四月号)
底本:「「ぷろふいる」傑作選 幻の探偵雑誌1」ミステリー文学資料館・編、光文社文庫、光文社
2000(平成12)年3月20日初版1刷発行
初出:「ぷろふいる」
1934(昭和9)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:大野 晋
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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