、で、その放火事件と云いますのは、かいつまんで申しますと――
被告人は三浦某と云うゴム会社の職工で、芝の三光町あたりに暮していた独身者《ひとりもん》なんですが、これがその、なにかのことで常日頃から憎んでいた同じ町内のタバコ屋へ、裏口から火をつけて燃《もや》しちまった、と云うんです……まだ寒いカラッ風の吹く冬の晩のことなんです……で、この放火事件も、別に確かな物的証拠ってやつはなかったんですが、悪いことには事件の起る数日前に、被疑者の三浦と云うのがタバコ屋と口論して、なんでも「お前の家なぞ焼払っちまう!」とかって脅かしたのが、判って来たんです。で、うんとしぼられて起訴された時には、自白していたんですが、これがその公判廷へ来ると、あれは警察から自白を強《し》いられたからなんだと、俄かに陳述を翻《ひるが》えして、犯行を否定しはじめたんです……それで被告の云うには、いちばん始めに警察で申上げた通り、事件のあった晩、自分は宵の口から浅草へ映画を見に行っていた、と頑張りはじめたんです。そこで裁判長は、お前が映画を見ていたと云う、なにか証拠になるような物なり事なり出して見せなさいとやらかしたんです。すると被告は、暫く考えたあとで、そう云えば、自分はあの晩まったく早くから出掛けていて、まだ開館にならない映画館の出札口で、見物人の行列の一番先頭に立って出札を待っていたから、調べて貰えばきっと誰れか自分を見た人があるに違いないって云い始めたんです。そこで早速、映画館の二、三の従業員が、証人として喚問され、被告と対決させられたんです。
ところが、被告の申立てる犯行当日に於ける上映映画のプログラムや内容については、間違いないんですが、被告人が入場者の行列の先頭に立っていたと云う事については、一日に何回も開館するのだし毎日のことだから少しも覚えがないって、その証人の従業員達はつッぱねちまったんです。つまり、被告のために有利な証拠はひとつもないってわけなんでして……いや、それどころじゃアない、ここで被告のために、却って悪い証人が出て来たんです……
で、その問題の証人と云うのは、事件当夜の映画館のことについて自から進んで警察に申出た証人があるから、と云う検事さんの申請によって、いよいよ出頭と云うことになったんですが、これがその……どうです、なンと……「つぼ半」の女将《おかみ》の、福田きぬな
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