《むち》の子供《こども》たちで、どこを指《さ》して行《ゆ》くのだか、何《なに》しろずんずん歩《ある》いてゆく。唯《たゞ》耶路撒冷《イエルサレム》を信《しん》じてゐる。何《なん》でも耶路撒冷《イエルサレム》は遠《とほ》い処《ところ》だ、さうして主《しゆ》の君《きみ》は、われわれのごとく傍《そば》にお出遊《いであそ》ばすのだ。衆《みんな》は耶路撒冷《イエルサレム》まで往《い》かれまい。耶路撒冷《イエルサレム》が衆《みんな》のとこへ来《く》るだらう。丁度《ちやうど》自分《じぶん》にも来《く》るやうに。凡《す》べて神聖《しんせい》な物《もの》の終《はて》は悦《よろこび》に在《あ》る。われらが主《しゆ》の君《きみ》はこの紅《あか》い茨《いばら》の上《うへ》に、このわが口《くち》に、わが貧《まづ》しい言葉《ことば》にも宿《やど》つていらせられる。なぜといふに、自分《じぶん》は主《しゆ》の君《きみ》を思《おも》ひ奉《たてまつ》ると、其聖墓《そのおはか》が心《こゝろ》の中《うち》にもう入《はい》つてゐるからだ。亜孟《アメン》。どれ、日射《ひあたり》のいゝ此処《ここ》へでも寝転《ねころ》ばうか。これこそ
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