ごう》も清新体の詩人に打撃を与ふる能はざるのみか、却《かへつ》て老伯の議論を誤解したる者なりと謂《い》ふ可し。人生観の根本問題に於て、伯と説を異にしながら、その論理上必須の結果たる芸術観のみに就て賛意を表さむと試むるも難いかな。
 象徴の用は、これが助を藉《か》りて詩人の観想に類似したる一の心状を読者に与ふるに在りて、必らずしも同一の概念を伝へむと勉《つと》むるに非ず。されば静に象徴詩を味ふ者は、自己の感興に応じて、詩人も未だ説き及ぼさざる言語道断の妙趣を翫賞《がんしよう》し得可し。故に一篇の詩に対する解釈は人各或は見を異にすべく、要は只類似の心状を喚起するに在りとす。例へば本書一〇二頁「鷺《さぎ》の歌」を誦するに当《あたり》て読者は種々の解釈を試むべき自由を有す。この詩を広く人生に擬《ぎ》して解せむか、曰《いは》く、凡俗の大衆は眼低し。法利賽《パリサイ》の徒と共に虚偽の生を営みて、醜辱|汚穢《おわい》の沼に網うつ、名や財や、はた楽欲《ぎようよく》を漁《あさ》らむとすなり。唯、縹緲《ひようびよう》たる理想の白鷺は羽風|徐《おもむろ》に羽撃《はばた》きて、久方の天に飛び、影は落ちて、骨蓬《かうほね》の白く清らにも漂ふ水の面に映りぬ。これを捉へむとしてえせず、この世のものならざればなりと。されどこれ只一の解釈たるに過ぎず、或は意を狭くして詩に一身の運を寄するも可ならむ。肉体の欲に※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2−92−73]《あ》きて、とこしへに精神の愛に飢ゑたる放縦生活の悲愁ここに湛《たた》へられ、或は空想の泡沫《ほうまつ》に帰するを哀みて、真理の捉へ難きに憧《あこ》がるる哲人の愁思もほのめかさる。而してこの詩の喚起する心状に至りては皆相似たり。一二五頁「花冠」は詩人が黄昏《たそがれ》の途上に佇《たたず》みて、「活動」、「楽欲」、「驕慢《きようまん》」の邦《くに》に漂遊して、今や帰り来《きた》れる幾多の「想」と相語るに擬したり。彼等黙然として頭|俛《た》れ、齎《もた》らす処只幻惑の悲音のみ。孤《ひと》りこれ等の姉妹と道を異にしたるか、終に帰り来らざる「理想」は法苑林《ほうおんりん》の樹間に「愛」と相|睦《むつ》み語らふならむといふに在りて、冷艶《れいえん》素香の美、今の仏詩壇に冠たる詩なり。
 訳述の法に就ては訳者自ら語るを好まず。只訳詩の覚悟に関して、ロセッティ
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