瑣《はんさ》なる階級の差等《さとう》、「御《おん》」とか、「せさせ給ふ」とかいう尊称語を除いてみれば、後世の型に囚《とら》われた文章よりも、この方が、よほど、今日の口語《こうご》に近い語脈を伝えていて、抑揚|頓挫《とんざ》などという規則には拘泥《こうでい》しない、自然のままの面白味が多いようだ。
しかも時代の変遷はおのずから節奏《リトム》の変化を促し、旋律《メロデイ》は同じでも、拍子《テムポオ》が速くなる。それ故に古の文章に対《むか》う時は、同じ高低、同じ連続の調子が現われていても、何となく間が延びているため、とかく注意の集中が困難であり、多少は努力なくては、十分に古文の妙を味《あじわ》えない。
古文の絶妙なる一部分を詞華集《アントロジイ》に収めて、研究翫味する時は、原文のほうが好かろう。しかし全体としてその豊満なる美を享楽せんとするには、一般の場合において、どうしても現代化を必要とする。与謝野夫人の新訳はここにその存在の理由を有していると思う。
従ってこの新訳は、漫《みだり》に古語を近代化して、一般の読者に近づきやすくする通俗の書といわんよりも、むしろ現代の詩人が、古の調《ちょ
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