の協定もある温度のもとにおいてはあとかたもなく消失するある種の化合物に似ている。
 我々は必ずしもあらゆる場合に従業員側の行動を正当づけようと試みるものではない。たとえば仕事の途中でこれを抛棄して他へ走るがごとき無責任な行動は社会人としても許し難いばかりでなく、それが往々にして、真摯《しんし》なる動機によって行動するものにまで累を及ぼすことは私のかぎりなく遺憾とするところである。
 しかしそれとこれとはまたおのずから別の話である。道徳上の問題は道徳的制裁によって解決すれば足りる。
 たまたま一部に不徳漢があったということは決して四社連盟を正当づける理由とはならない。
 不徳行為に対する制裁は不徳者一個人の範囲を超えてはならぬ。
 四社連盟は無辜《むこ》の従業員過半数の生命線を犯さんとする暴圧である。
 いったい映画従業員ほどおとなしいものはもはや現在の世の中にはどこにもいはしないのである。
 映画の従業員はまったくおとなしいのである。彼らは天下泰平の夢を見続けて、今に至るまで一つの組合さえ持たなかったのである。愚かな彼らは「芸術家」という一枚の不渡手形を、後生大事とおしいただいて、三十何時間労働というような、他に例のない肉体酷使をあえてしてまで、黙々と会社をもうけさせてきたのである。(こういえば、会社はもうかっていないというであろう。しかし会社がもうからなくても会社を組織している特定の個人だけは常にもうけていることを我々は知っている。)
 しかも彼らの働く場所はいまだに工場法の適用されない、あの日本中のどこよりも空気が悪いといわれるダーク・ステージの塵埃の中である。そこで会社の命ずるままに夜間撮影をやり、徹夜の強行撮影をやり、ぶっとおしに翌日の夜まで働いて、へとへとになった彼らの手に握らされたものは、一、二枚の食券のほかに何があったであろうか。
 それでも彼らは何もいわない。映画従業員はこれほどおとなしいのである。
 まだある。
 映画会社には最低給料に関する規定がない。したがって映画従業員の月給は上は数千金から下は無給の例さえあるのである。
 映画会社には恩給制度、退職手当に関する制度がほとんど行なわれていない。年功による昇給に関する確然たる規定がない。賞与に関する規定がない。
 規定がないということは、つまり実質的にもそういうものが存在しないことを意味する。
 なぜならば会社は規定にないことまでは決して実行しないから。
 つまり映画会社は従業員の生活の保障に対して具体的には何らの関心をも示していないのである。
 いいかえるならば、映画会社はまだ世間並の企業会社として一応の形態を備えていないのである。かかる場所で働いている従業員の不安を考えてみるがよい。
 彼らはなるほど会社間を転々する。なぜならばそれ以外に昇給の方法を知らないから。
 彼らは盛んに会社から借金をする。なぜならば彼らにはほとんど賞与というものがないから。
 また俳優などは入社に際してよく一時金というものを取る。なぜならば彼らには退職手当というものがないから。
 なるほど一流の監督俳優だけは立派に暮している。なぜならば彼らは自分の力によって取るだけのものは会社から取るから。
 しかしそれ以外のものはどうするか。どうすることもできない。ただ黙って働いているだけである。
 しかるに、これでもまだ足りないのか。いまや、会社側は四社連盟によって堂々と団結し、このいくじのない無抵抗主義者たちに向かって華々しく挑戦してきたのである。
 かくして日本映画界においては従業員よりも資本家たちのほうがはるかに闘争的であるという世にも不可思議なる事実が証明せられたのである。少なくともまず最初に団結の力を認め、これを実行に移したものが資本家であったということは日本映画界が世界に誇るに足る珍記録であり、チャップリンといえどもとうてい企図し得ないすばらしいギャグではないか。
 あだしごとはさて置き、日本映画従業員の境遇は四社連盟の結成と同時に、遺憾ながら奴隷、あるいは監獄部屋の人たちの境涯にはなはだしく似かよってきたことは覆うべからざる事実である。
 話もここまでくれば、これはもはや思想的立場を引合いに出すような現代的な問題ではない。むしろこれはアメリカに南北戦争はなやかなりしころの、いとも事古りたる人道問題の領分である。
 私は映画界の末席をけがす一人の人間として、かくのごとく不可思議な、しかもあまりにも時代錯誤的な話題を天下に提供することに堪え得ざる屈辱を感じる。しかもなお、それをあえてするゆえんは、日本映画界をより健康な状態にまで連れて行くために、あるいはこの一文がほんのわずかな示唆の役割でも勤めはしないかというはかない空頼みのためである。
 それにしても四社連盟の策謀者はだれか。
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