百姓の生活は見せないほうがよい。貧しい階級の生活は見せないほうがよい。あるいはいわく何。いわく何。
ここにいたつて私は彼らに反問せずにはいられない。そもそも君たちは映画を何と心得ているのかと。国民の生活を反映しないような映画はすでに映画ではないのだ。芸術とは民族の生活のうえに咲く花なのだ。
他国の人間のしり馬に乗つて、百姓の姿を醜く感じるようなものはないはずである。百姓の姿は醜く、背広を着た月給取りは美しいというのか。そして、貧しい勤労者の生活を描くことは恥辱で、富みてひま多き人種を描くことは光栄なのか。世界のどこに貧者のおらぬ国があろう。世界の経済は、そして国家の生活力はほとんど彼ら貧しいものの勤労によつて維持されているではないか。
かくのごとき重要なる国家の構成分子の生活を除外してどこに芸術があろう。日本には百姓もいない。貧者もいない。いるのは軍人と金持だけであり、それが立派な洋館に住み、洋服を着て椅子に腰掛け、動けば雄大なる構想をもつて大活躍を演ずるというのが彼らのいう外地向きの映画なのだ。このような映画の作れる人は作るがよい。私には不可能である。
ここで第二の意見の検討
前へ
次へ
全12ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊丹 万作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング