。すなわち取材の範囲を拡張せよと。またいう。雄大なる構想を練れと。もちろんいずれも結構なる議論である。私にはこれらの意見に反対するいささかの理由もない。それらは当然なさねばならぬことであるし、またできるときがあると思う。しかしながら、それは今日いつて今日できることではないのである。私はここでもまた、いうことのあまりにやすきを嘆ぜざるを得ない。
 試みに思え、国民学校の一年生でも、今日先生の教えを理解し得るのは過去六年間の家庭の薫陶が基礎をなしているからである。我々の過去に何の薫陶があつたか!
 説くものはまたいう。せりふの多い映画は不向きであるから、極力せりふを少なくし、動きを多くし、あたうべくんば活劇風のものを作れと。
 あるいはそれもよいだろう。しかし、それをなすためには複雑な内容を忌避しなければならず、したがつて我々は意識的に一応退化しなければならない。一歩でも半歩でも絶えず前へ進むところに芸術にたずさわるもののよろこびがある。うしろへ進めといわれて熱情を湧かし得るものがあるかどうか。
 説をなすものはさらにいう。畳の上に坐臥する日本の風習は彼らのわらいを買うからおもしろくない。
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