映画と民族性
伊丹万作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)筆を駛《はし》らせる

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「むしろ」は底本では「むろし」]
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 すでにある芸術を政治が利用して有効に役立てるということはいくらも例のあることであるが、政治の必要から新たにある種の芸術を生み出し、しかも短期間にそれを完成するというようなことはほとんど不可能なことで、いまだかつてそのようなことが芸術の歴史に記されたためしはない。
 太平洋戦争が開始されて以来、外地向け映画の問題がやかましく論議せられ、各人各様の説が横行しているが具体的には何の成果もあがらないのは芸術の生命が政治的要求だけで自由にならないことを証明しているようなものである。
 ある種の芸術が昭和二十年代の政治に役立つためには、遅くともそれが昭和の初年には完成していなければならぬし、そのためにはすでに明治大正のころに十分なる基礎が与えられていなければならぬ。明治大正のころには我々は何をしていたか。そして君たちは?
 今となつて外地へ持ち出す一本の映画もないと叫び、その原因を
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