は、ともすればかかる偶然を、ことにそれが些事である場合は、いっそう見逃してしまいたい誘惑を感じる。
そしてその場合、自分自身に対する言いわけはいつも「実際においてもこういうことはよくあるじゃないか」である。
しかもかかる偶発的些事というものは、もともと自然発生的であるだけにその外見は極めて自然で受けいれられやすい姿をしている。我々の経験によるとこれらの偶然のほうがときには計量された演技よりもむしろ立ちまさって見える場合さえある。だからなおさら我々は偶然に対していっそう用心深くならなければいけないのである。
あらかじめ計算されざる偶然はなぜ排除しなければならぬか、その理由はただ一つ。
作中の世界は作者によって整理された世界でなければならぬから。しかして整理とは一面無意味な偶然の排除を意味する。ここでぜひとも思い浮べなければならぬことは、いつも時間とともに流れている映画の本質である。映画の美は時間と関連せずには考えられないし、映画の世界のできごとはどんなに複雑でも通例二時間以内に圧縮整理されてしまう運命を持っている。たえず美の法則に従って映画の流れを整え、時間を極度に切り詰めて最も
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