有効に使わなければならぬ映画作者がどこに無意味な偶然を許容する余裕を持ち得るだろう。「実際にもしばしばある」ということは偶然を許容する理由としては何の意味をも持たない。なぜなら我々の作っているのは芸術であり、偶然はなまの事実にすぎない。芸術の構成中の偶然は米の中の石つぶのごときものだ。それは人の歯にがちりとさわる。映画の場合は、それは美しき流れを乱し、時間を攪拌《かくはん》する。しかし私はこれらの結論を理論の中から導き出したのではない。私の経験によると撮影のときにそれを許容する気持ちにさせた偶然が、試写のときには必ず多少とも後悔と自責の念に私を駆り立てずにはおかないからである。はっきりいえばその実際の経験だけが私に偶然の警戒すべきを教えるのであって、理窟は実はどうでもいいのである。ついでだからもう一つ例をあげると、俳優が偶然あるせりふにつまって絶句したとする。かようなことは実際の人生には絶えずあることで、むしろむだのない長せりふを順序を違えず一つの脱落もなく、絶句もしないで滔々としゃべることこそはなはだしき不自然だといえる。だから絶句は自然だといって許しておいたらどういう結果になるかは
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