なことはない。あるときはそれは沈黙であり、あるときは微笑であり、あるときは椅子から立ち上って歩くことであり、あるときは瞑目することであり、あるときは――。これでは際限がないから、私はこれにへたな名前を与えよう。いわく、「暗示的演技指導」。
○俳優をしかってはいけない。彼はいっしょうけんめいにやっているのだから。私は公式主義からこんなことをいうのではない。私は俳優を打ったこともある。私も人間であり相手も人間であるからには、ときとして倫理も道徳も役に立たない瞬間があり得る。しかし法則を問われた場合には私はいう。どんなことがあっても俳優をしかってはいけない、と。
○俳優にむかってうそをついてはならぬ。たとえそれがやむを得ない方便である場合においても。
○演技に際して俳優が役に成り切るべきであるように、演技指導に際して演出者は俳優になりきるべきである。このことは一見俳優に対する批評的立場と抵触するようだが、実際には抵触しない。万一抵触するにしても、そのためにこの法則を撤回するわけには行かない。
○俳優の演技を必要以上に酷評するな。
それは必要以上に賞讃することよりもっと悪い。
○俳優をだれさすな。カメラマンをだれさしても、照明部をだれさしても、俳優はだれさすな。
○いかなる演技指導もむだだと思われるのは次に示す二つの場合である。
一、俳優の芸がまったく可撓性《かとうせい》を欠いている場合。
二、俳優が自己の芸は完全だと確信している場合。
(以上のような実例はおそらくないだろうとだれしも考えがちであるが、既成スターの中には右の典型的な例が珍しくない。)
○可撓性のないものを曲げようとすれば、それは折れる。
○自分は健康だと信じているものは薬をのみはしない。自分は完全であると信じきっているものは決して忠告を受けいれない。
○演技の中から一切の偶然を排除せよ。
予期しない種々な偶然的分子が往々にして演技の中へ混りこむ場合がある。
たとえば俳優が演技的意図とはまったく無関係にものにつまずいたり、観客の注目をひいている俳優の顔に蝿がとまったり、突然風が強く吹いてきて俳優のすそが乱れたり、などなど、その例は枚挙にいとまがないが、要するにあらかじめ演出者の計算にははいっていない偶発的できごとは一切これを演技の中に許容しないほうがよい。ところが我々は実際において
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