演技指導論草案
伊丹万作
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)抽《ひ》き出す
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)巧言令色|鮮《すく》ないかな仁
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+它」、第3水準1−14−88]
−−
○演技指導という言葉はわずかにこの仕事の一面を表出したにすぎない。この仕事の真相は指導でもなく、監督でもなく、化育でもなく、叱正でもない。最も感じの似通った言葉をさがせば啓発であろうが、これではまだ少し冷たい。
仕事中我々は意識して俳優に何かをつけ加えることもあるが、この仕事の本質的な部分はつけ加えることではなく、抽《ひ》き出すために費される手続きである。
○俳優から彼の内包せる能力を抽き出すためには必ず多少の努力を要するものであるが、抽き出そうとする能力があまりにも深部にかくされており、俳優自身もその存在を確信しないような場合には我々の仕事は著しく引き伸ばされ、仕事の形式は訓練という言葉に近づいてくる。
○ある時間内の訓練が失敗に終ったとしてもあきらめてしまうのはまだ早い。その次に我々が試みなければならぬことは、さらに多くの時間と、そしてさらに熱烈な精神的努力をはらうことである。たとえばめんどりのごとき自信と執拗さをもって俳優を温め温めて、ついに彼が孵化するまで待つだけの精神的強靱さを持たなければならぬ。
○演技とは俳優が「自己の」肉体を通じて、作中人物の創造に参与し、これを具体化し完成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。
○演技指導とは演出者が「俳優たちの」肉体を介して、作中人物の創造に参与し、これを具体化し完成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。
○演技指導は行動である。理論ではない。
○読書の中から演技指導の本質を探り取ろうとするのは地図をにらんで戦争を知ろうとするようなものだ。いくらにらんでも地図は地図だ。戦争ではない。
○演技指導の方法論に関して私にできるただ一つのことは、その具体的な手続きのうちに比較的法則めいたことを発見してこれを書きとめるということだけだ。
○法則というものに対する信頼にはおのずから限界があるべきを忘れて
次へ
全15ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊丹 万作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング