はいけない。
「美のためには破ってはならない法則は存在せぬ。」(ベートーヴェン)

○法則とは自分が発見したら役に立つが、人から教わるとあまり役に立たぬものだ。

○演技指導の本質の半分は「批評」である。

○演技指導について少し広義に記述しているといつかそれは演出論になる。

○演技指導について少し末梢的に記述しているといつかそれは演技論になる。

○自信と権威ある演技指導というものはすぐれた台本を手にしたときにだけ生れるものだ。作のくだらなさを演技指導ないし演出で補うなどということはあり得べきこととは思えない。
 くだらぬ台本を手にした場合、俳優に注文をつける自分の声はいちいち空虚な響きをもって自分の耳にはねかえってくる。

○演技の一節を、あるいは一カットの演技を顔に持って行くか、全身に持って行くか、あるいはうしろ姿にするか、それとも手の芝居にするかというような問題はすでに演技指導を離れて広く演出の分野に属するが、これらのコンティニュイティ的処理のいかんが演技の効果に影響する力は、ときに演技指導そのものよりも、はるかに根本的であり、その重量の前には区々たる演技指導の巧拙などはけし飛んでしまうことさえある。

○演技指導における俳優と演出者の関係は、ちょうど一つの駕籠《かご》をかつぐ先棒と後棒の関係に似ている。先棒の姿は後棒に見えるが、先棒自身には見えない。

○演出者と俳優と、二つの職業的立場を生み出した最大の理由は、人間の眼が自分を見るのに適していないためらしい。

○俳優に対する演出者の強みには個人的なものと一般的なものと両様ある。個人的なものとはもっぱら演出者の個々の眼の鋭さに由来するが、一般的なものは、演出者がいつもカメラの眼を背負って立っているという職分上の位置からくる。

○カメラの眼の位置はすなわち観客の眼の位置である。

○演出者とは、一面観客の象徴である。

○どんなに個性の強烈な演出者と、どんなに従順な俳優とを結びつけても、俳優が生きているかぎり、彼が文字どおり演出者の傀儡《かいらい》になりきることはあり得ない。

○どんなに妥協的な演出者と、どんなに専横な俳優とを結びつけても、演出者が機械[#「機械」に傍点]を占領しているかぎり、俳優はいつまでも彼を征服することができない。

○どの俳優にでもあてはまるような演技指導の形式はない。

○演
前へ 次へ
全15ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊丹 万作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング