技指導をそれ以外のものから明瞭に切り離し得るのは観念の中においてのみである。
実際には種々なものと複雑にからみ合っていて、純粋な抽出は不可能である。
○演技指導はそれが始まるときに始まるのではない。通例配役の考慮とともにそれは始まる。
○百の演技指導も、一つの打ってつけな配役にはかなわない。
○最も能率的な演技指導は成功せる配役である。その逆もまた真である。
(したがって純粋な立場からいえば、配役は演出者の仕事であるが、実際には必ずしもそうは行かない場合が多い。)
○私の見るところでは、俳優は偉大なる指導者(それは伝説的であってもいい。)の前では多少ともしゃちこばってしまう傾向を持っている。したがって駈け出しの演出者こそ最も生き生きした演技を彼らから抽き出し得る機会に恵まれているというべきであろう。
(このことを方法論的にいうならば、演出者は威厳を整えるひまがあったら愛嬌を作ることに腐心せよということになる。)
○演技指導の実践の大部分を占めるものは、広い意味における「説明」である。しかし一般に百を理解している人が百を説明しきれる場合は稀有に属する。私の場合は四十パーセントがあやしい。これは自分の天性の劣弱なことにもよるが、もっと大きな原因は我々が古色蒼然たる言論蔑視の倫理に締めつけられてきたことにある。いわく「ことあげせず」。いわく「不言実行」。いわく「雄弁は銀沈黙は金」。いわく「巧言令色|鮮《すく》ないかな仁」。いわく何。いわく何。そうしてついに今|唖《おし》のごとき演出家ができあがって多くの俳優を苦しめているというわけである。将来の演技指導者たらんとするものはまず何をおいても「説明」の技術を身につけることを資格の第一条件と考えるべきであろう。
○俳優の一人一人について、おのおの異った指導方法を考え出すことが演技指導を生きたものたらしめるための必須条件である。
○演出者の仕事の中で演技指導こそは最も決定的でかつ魅力的なものだ。カッティングやコンティニュイティを人任せにする演出者はあっても、演技指導を人任せにする演出者はない。
○演出者は平生から日本中のあらゆる俳優についてできるだけ多くのことを知っているほうがいい。しかしもしそれが困難だとすれば、せめて近い将来において仕事のうえで自分と交渉を持つことを予想される幾十人かの俳優についてだけでも知り
前へ
次へ
全15ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊丹 万作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング