得る範囲のことを知っているべきである。そのためには直接彼らと知り合って談笑のうちにその特質や性癖を見抜くことはもちろん必要であるが、一方ではまたできるだけ彼らの出演している舞台や映画を見てまわって、その演技や肉体的条件をよく記憶しておくことが必要である。
 しかしかくして得た予備知識がどんなに豊饒であろうとも、それがただちに俳優に対する評価を決定する力になるとはかぎらない。

○俳優に関するどんな厖大な予備知識も、演出者として半日彼と交渉することとくらべたらほとんど無意味に等しい場合がある。

○厳密な意味において俳優を批評し得る人は、その俳優と仕事をした演出者以外にはない。

○俳優のほとんど残らずは、彼が自身のいかなる演技中にも決して示さないようなすぐれたアクションや、魅力的な表情や、味の深いエロキューションを日常の生活の中に豊富に持っているものである。演出者はそれらをよく観察し、記憶していて、彼の演技の中へこれを移植しなければならぬ。

○演技指導の基本的な二つの型として、おもに演技をやってみせる方法と、おもに説明に依拠する方法とがある。前者は端的であり成功した場合は能率的であるが、ただしこれは指導者が完全な演技者に近い場合に限るようだ。ところが実際においてかかる実例は極めて乏しい。不完全な演技を示すことの結果は、往々にして何も示さないことよりもっと悪い場合がある。かくして極めて迂遠ながら第二の説明に頼る方法が取り上げられる。現在は日本の演出者の大部分はおそらくこの方法にもたれかかっていると想像されるが、さてここで用心しなければならぬことは、説明ということの可能性には限界があり、しかもその限界がかなり低いということと、我々の説明技術の貧困がその限界をさらに低下させているということである。

○私自身の演技指導はいったいどの型であろう。演技をやってみせることは私にはできない。説明の才能はほとんど落第点である。それにもかかわらず私はあくまでも自分の意志を相手の肉体のうえに顕現しなければならない。そこで私は無意識のうちに次のような方法にすがりついて行った。つまり私は第一にできるだけ動いて見せることを避け、説明をもってこれにかえよう。そして次には、さらに、できるだけ説明することを避け、「何か」をもってこれに代えよう。「何か」とは何であろう。この「何か」の説明くらい困難
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