は、ともすればかかる偶然を、ことにそれが些事である場合は、いっそう見逃してしまいたい誘惑を感じる。
 そしてその場合、自分自身に対する言いわけはいつも「実際においてもこういうことはよくあるじゃないか」である。
 しかもかかる偶発的些事というものは、もともと自然発生的であるだけにその外見は極めて自然で受けいれられやすい姿をしている。我々の経験によるとこれらの偶然のほうがときには計量された演技よりもむしろ立ちまさって見える場合さえある。だからなおさら我々は偶然に対していっそう用心深くならなければいけないのである。
 あらかじめ計算されざる偶然はなぜ排除しなければならぬか、その理由はただ一つ。
 作中の世界は作者によって整理された世界でなければならぬから。しかして整理とは一面無意味な偶然の排除を意味する。ここでぜひとも思い浮べなければならぬことは、いつも時間とともに流れている映画の本質である。映画の美は時間と関連せずには考えられないし、映画の世界のできごとはどんなに複雑でも通例二時間以内に圧縮整理されてしまう運命を持っている。たえず美の法則に従って映画の流れを整え、時間を極度に切り詰めて最も有効に使わなければならぬ映画作者がどこに無意味な偶然を許容する余裕を持ち得るだろう。「実際にもしばしばある」ということは偶然を許容する理由としては何の意味をも持たない。なぜなら我々の作っているのは芸術であり、偶然はなまの事実にすぎない。芸術の構成中の偶然は米の中の石つぶのごときものだ。それは人の歯にがちりとさわる。映画の場合は、それは美しき流れを乱し、時間を攪拌《かくはん》する。しかし私はこれらの結論を理論の中から導き出したのではない。私の経験によると撮影のときにそれを許容する気持ちにさせた偶然が、試写のときには必ず多少とも後悔と自責の念に私を駆り立てずにはおかないからである。はっきりいえばその実際の経験だけが私に偶然の警戒すべきを教えるのであって、理窟は実はどうでもいいのである。ついでだからもう一つ例をあげると、俳優が偶然あるせりふにつまって絶句したとする。かようなことは実際の人生には絶えずあることで、むしろむだのない長せりふを順序を違えず一つの脱落もなく、絶句もしないで滔々としゃべることこそはなはだしき不自然だといえる。だから絶句は自然だといって許しておいたらどういう結果になるかは
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