れも思想だといえば思想なのであろう。なぜならば思想なしには判断もできないから。
しかし、クレールの示したものよりもさらに愚劣なもの、さらにこつけいなものはいくらでもある。
しかしクレールはあえてそれらを指摘しようとはしない。また、彼の指摘するところの愚劣やこつけいは何に原因しているのか、そしてそれらを取り除くにはどうすればいいのか、等々の問題については彼はいつこうに関心を示そうとしない。
もしも思想というものが現われるものなら、それは彼の関心を示さない、これらの部分にこそその姿を現わすはずのものである。したがつて私は彼の思想をどう解釈していいかほとんど手がかりを発見することができないのである。
私がいつかある場所において、クレールの作に現われているのは思想ではなくて趣味だといつたのはこのゆえである。
あれだけ多量の諷刺を通じてなおかつその思想の一端に触れることができないような、そんな諷刺に人々はなぜあれほど大さわぎをするのであろうか。
クレールの本質
私たちがクレールにとてもかなわないと思うのは多くの場合その技巧と機知に対してである。
クレールほどあざ
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