諷刺があるのは、あるべきものがあるべきところにあるというだけの話で別にありがたがるにはおよばんではないかというのである。人を笑わせるだけのことならからだのどこかをくすぐつてもできるのである。芸術だの何だのという大仰な言葉を使つて人さわがせをするにはあたらないのである。問題は諷刺の有無ではない。問題は諷刺の質にある。諷刺の質を決定するものは何かといえば、それは思想にきまつている。ではクレールの思想は?
クレールと思想
最も面にしてかつ倒なる問題に逢着してしまつた。白状すると私にはクレールの思想はわからない。少なくともいままで私の見た彼の作品(日本にきたものは全部見たが。)をつうじては彼の思想はつかめない。彼は何ごともいわないのかあるいは彼にははつきりした思想がないのか、どちらかである。彼は世間のできごとを観察する。そして判断する。こういうことは愚劣だ。あるいはこつけいである。たとえばそれはこういうふうなこつけいに似ている。見たまえ。これが彼らの姿だ。そういつて彼は私たちにこつけいな画面を示す。そこで我々はそれを見て笑う。
クレールのすることはそれだけである。
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