に対し、大王はその半数をもってこれに対応することとなった。大王は熟慮の後ベーメン侵入に決し、冬営地より諸軍をプラーグ附近に向い集中前進せしめた。この前進は当時の用兵上より云えば余りに大胆なものであり種々論評せらるるところであるが、大王十年間の研究、訓練に基づく自信力の結果でよく敵の不意に乗じ得たのである。
 五月六日プラーグ東方地区で墺軍を破り、これをプラーグ城内に圧迫した。プラーグは当時既に相当の要塞になっていたので簡単に攻略する事が出来ず、五月二十九日より始めた砲撃も弾薬不充分で目的を達しかねた。ところが墺将ダウンが近接し来たり、巧みに大王の攻囲を妨げるので大王は止むなく手兵を率いてこれに迫り、六月十八日コリン附近でダウンの陣地を攻撃した。しかしながら大王軍は遂に大敗し、止むなくプラーグの攻囲を解き、一部をもってシュレージエン方向に主力はザクセンに退却した。
 大王のコリンの失敗はほとんど致命的と云うべき結果であったのに、更に仏・巴軍が西方および西南方より迫り来たったので形勢愈々急である。幸い墺軍の行動活発ならざるに乗じ大王は西方より迫り来たる敵に一撃を与えんとした。敵は巧みにこれ
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