はますますむずかしくなり、私も大連で二、三度、私の戦争観を講演し、「今日は必要の場合、日本が正しいと信ずる行動を断行するためには世界の圧迫も断じて恐れる必要がない」旨を強調したのであった。時勢の逼迫《ひっぱく》が私の主張に耳を藉《か》す人も生じさせていたが、事変勃発後、私の「戦争史大観」が謄写刷りにされて若干の人々の手に配られた。こんな事情で満州建国の同志には事変前から知られ、特に事変勃発後は「太平洋決戦」が逐次問題となり、事変前から唱導されていた伊東|六十次郎《むそじろう》君の歴史観と一致する点があって、特に人々の興味をひき爾来、満州建国、東亜連盟運動の世界観に若干の影響を与えつつ十年の歳月を経て、遂に今日の東亜連盟協会の宣言にまで進んで来たのである。
 昭和七年夏、私は満州国を去り、暮には国際連盟の総会に派遣されてジュネーブに赴いた。ジュネーブでは別にこれという仕事もなかったので、フリードリヒ大王とナポレオンに関する研究資料を集め、昭和八年の正月はベルリンに赴いて坂西武官室の一室を宿にし、石井(正美)補佐官の協力により資料の収集につとめた。帰国後も石井補佐官並びに宮本(忠孝)軍医少
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