時は相当に激しいこともあり、また漢口から帰国後、マラリヤにかかったなどの関係上、爾後の健康は昔日の如くでなく、且つ中年の中耳炎は根本的に健康を破壊し、殊に満州事変当時は大半、横臥して執務した有様であった。
かような関係で族順では遂に予定の計画を果し得なかったが、しかし陸大教官二個年間の講義は未消化であり、特にデルブリュックの影響強きに失し、戦争指導の両方式即ち戦争の性質の両面を「殲滅戦略」「消耗戦略」と命名していたのは、どうも適当でないとの考えを起し、この頃から戦争の性質を「殲滅戦争」「消耗戦争」の名を用いて、戦略に於ける「殲滅戦略」「消耗戦略」との間の区別を明らかにすることにした。
「殲滅戦争」「消耗戦争」の名称を「決戦戦争」「持久戦争」に改めたのは満州事変以後のことである。
昭和四年五月一日、関東軍司令部で各地の特務機関長らを集め、いわゆる情報会議が行なわれた。当時の軍司令官は村岡中将で、河本大佐はその直前転出し、板垣征四郎大佐が着任したばかりであった。奉天の秦少将、吉林の林大八大佐らがいたように覚えている。この会議はすこぶる重大意義を持つに至った。それは張作霖《ちょうさくりん
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