いた原田軍医少将(当時少佐)、オーストリア駐在武官の山下中将をもわずらわして不足の資料を収集した。昭和元年から二年への冬休みは、安房《あわ》の日蓮聖人の聖蹟で整頓した頭を以て、とにかく概略の講義案を作成した。もちろん、根本理論は前年度のものと変化はないのである。当時、陸軍大学幹事坂部少将から熱心な印刷の要望があったが、充分に検討したものでもないので、これに応ずる勇気も無く、現在も私の手元に保存してある次第である。
昭和三年度のためには、前年の講義録を再修正する前に、私の年来最大の関心事であるナポレオンの対英戦争の大陸封鎖の項に当面し、全力を挙げて資料を整理し、昭和二年から三年への年末年始は、これを携えて伊豆の日蓮聖人の聖蹟に至り、構想を整頓して正月中頃から起草を始めようとしたとき、流感にかかり中止。その後、再び着手しようとすると今度は猛烈な中耳炎に冒されて約半歳の間、陸軍軍医学校に入院し、遂に目的を達せずして終ったのであった。その後もこの研究、特に執筆を始めると不思議にも必ず病気にかかるので「アメリカの神様が必死に邪魔をするんだろう」などと冗談を言うような有様であった。
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