ますよ。あなたの厄介にならずに育てますよ。乳だってこんなにたくさんあるんですもの。」
 お銀は終《しま》いによそよそしいような口を利いたが、自分一人で育てて行けるだけの自信も決心もまだなかった。
 笹村はしばらく忘れていた仕事の方へ、また心が向いた。別れることについて、一日評議をしたあげく、晩方ふいと家を出て、下宿の方へ行って見た。夏の初めにお銀と一緒に、通りへ出て買って来た質素《じみ》な柄の一枚しかないネルの単衣《ひとえ》の、肩のあたりがもう日焼けのしたのが、体に厚ぼったく感ぜられて見すぼらしかった。手や足にも汗がにじみ出て、下宿の部屋へ入って行った時には、睡眠不足の目が昏《くら》むようであった。笹村は着物を脱いで、築山《つきやま》の側にある井戸の傍へ行くと、冷たい水に手拭を絞って体を拭いた。石で組んだ井筒には青苔《あおごけ》がじめじめしていた。傍に花魁草《おいらんそう》などが丈高く茂っていた。
 部屋はもう薄暗かった。机のうえも二、三日前にちょっと来て見たとおりであったが、そこにカチカチ言っているはずの時計が見えなかった。笹村は何だかもの足りないような気持がした。押入れや違い棚のあたりを捜してみたが、やはり見当らなかった。机の抽斗《ひきだし》を開けてみると、そこには小銭を少しいれておいた紙入れが失《なく》なっていた。

     二十九

 女中に聞くと、時計は日暮れ方から見えなかった。多分横手の垣根を乗り越えて、小窃偸《こぬすと》が入って持って行ったのであろうということであった。その垣根は北側の羽目に沿うて、隣の広い地内との境を作っていた。人気のない地内には大きな古屋敷の左右に、荒れた小家が二、三軒あったが、立ち木が多く、草が茂っていた。奥深い母屋《おもや》の垠《はずれ》にある笹村の部屋は、垣根を乗り越すと、そこがすぐ離房《はなれ》と向い合って机の据えてある窓であった。
「何分ここまでは目が届かないものですから。」と女中は乗り越した垣根からこっちへ降りる足場などについて説明していたが、竹の朽ちた建仁寺垣《けんにんじがき》に、そんな形跡も認められなかった。
 笹村は部屋に音響のないのがたよりなかった。そしてこの十四、五日ばかり煩いの多かった頭を落ち着けようとして、机の前に坐って見たが、ここへ来て見ると、家で忘れられていたことが、いろいろに思い出されて来た。M先生から折々せつかれる仕事のこともそうであったが、自分がしばらく何も書かずにいることも不安であった。国にいる年老《としよ》った母親から来る手紙に、下宿へ出る前後から、まだ一度も返辞を書かなかったことなども、時々笹村の心を曇らした。笹村は先刻《さっき》抽斗を開けた時も、月の初めに家で受け取って、そのまま袂へ入れて持って来ると、封も切らずにしまっておいた手紙が一通目についた。笹村は長いあいだ、貧しく暮している母親に、送るべきものも送れずにいた。
 そこらが薄暗くなっているのに気がつくと、笹村はマッチを摺《す》ってランプを点《つ》けて見たが、余熱《ほとぼり》のまだ冷《さ》めない部屋は、息苦しいほど暑かった。急にまた先生の方のことが気になって、下宿を出ると、足が自然にそっちへ向いた。笹村はこれまでにもちょっとした反抗心から、長く先生に背《そむ》いていると、何かしら一種の心寂しさと不安を感ずることがたびたびあった。
 先生はちょうど按摩《あんま》を取って寝ていた。七月に入ってから、先生の体は一層衰弱して来た。腰を懈《だる》がって、寄って行く人に時々|揉《も》ませなどしていた。唯一の頼みにしていた白屈菜《くさのおう》を、ある薬剤の大家に製薬させて服《の》んでいたが、大してそれの効験《ききめ》のないことも判って来た。
 笹村は玄関から茶の室《ま》へ顔を出して、夫人《おくさん》に先生の容態を尋ねなどした。
「先刻《さっき》も着物を着替えるとき、ああすっかり痩せてしまった、こんなにしても快《よ》くならないようじゃとても望みがないんだろうって、じれじれしているんですよ、しかし笹村も癒《なお》ったくらいだから、涼気《すずけ》でも立ったら、ちっとはいい方へ向くかしらんなんてそう言っていますの。」
 先生のじれている様子を想像しながら、笹村は玄関を出た。
 そこから遠くもないI氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下《した》の部屋へ入ると、そこには綺麗な簾《すだれ》のかかった縁の檐《のき》に、岐阜提灯《ぎふぢょうちん》などが点《とも》されて、青い竹の垣根際には萩《はぎ》の軟かい枝が、友染《ゆうぜん》模様のように撓《たわ》んでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえに堆《うずたか》く積んである校正刷りも、I氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。

     三十

 客が帰ってしまうと、瀟洒《しょうしゃ》な浴衣に薄鼠の兵児帯《へこおび》をぐるぐる捲《ま》きにして主が降りて来たが、何となく顔が冴《さ》え冴《ざ》えしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装《なり》の好みや部屋の装飾《つくり》は、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥には媚《なまめ》いた女の声などが聞えていた。草双紙《くさぞうし》の絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もう弄《いじ》りだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、I氏は刻み莨を撮《つま》みながら、健かな呼吸《いき》の音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂《かぐらざか》に見えたのは、大分たってからであった。O氏は去年迎えた細君と、少し奥まったところに家を持っていた。I氏の家を出た笹村は足がまた自然《ひとりで》にそっちへ向いて行った。O氏は二階の手摺《てす》り際へ籐椅子《とういす》を持ち出して、午後からの創作に疲れた頭を安めていたが、本をぎっしり詰め込んだ大きな書棚や、古い装飾品のこてこて飾られた部屋が入りつけている笹村の目には、寂しい自分の書斎よりも一層懐かしかった。机のうえに心《しん》を細くしたランプがおかれて消しや書入れの多い原稿がその前にあった。
 二人はO氏の庭に植えるような草花を見て歩いたが、笹村は始終いらいらしたような心持でいながら、書生をつれたO氏にやはりついて歩いた。坂の下で、これも草花を猟《あさ》りに出て来たI氏に行き逢った。植木の並んだ坂の下は人影がまばらであった。そこでO氏は台湾葭《たいわんよし》のようなものを見つけるとそれを二株ばかり買って、書生に持たせて帰した。I氏は花物の鉢を提げて帰って行った。
 O氏は残った小銭で、ビーヤホールへ咽喉《のど》の渇きを癒《いや》しに入ったが、笹村も一緒にそこへ入って行った。二人は奥まった部屋で、ハムなどを突ッつきながら、しばらく話してから外へ出た。
 往来の雑沓《ざっとう》は大分|鎮《しず》まっていた。O氏に別れた笹村は暗い横町からぬけて、人気のない宿へ帰って来た。
「僕の宿へ来てみないかね。」
 別れる時笹村はO氏を誘って見た。
「いや休《よ》そう。君の下宿もつまらんでね。」
 下宿では衆《みんな》が寝静まっていた。長い廊下を伝うて、自分の部屋へ入ると、戸を閉めきった室内には、まだ晩方の余熱《ほとぼり》が籠っていた。笹村は高い方の小窓をすかして、しばらく風を入れていたが、するうち疲れた体を蒲団のうえに横たえた。
 二、三日笹村は、朝の涼しいうちから仕事に取りかかった。前の離房《はなれ》の二室へは、急に下町の商家の内儀《おかみ》らしい、四十前後の女が、息をぬきに来たという風で入って来た。どこか体に悪いところのあるようなその女は、毎日枕を出して臥《ね》そべっていた。時々三十ばかりの女が小さい娘をつれて訪ねて来ると、水菓子などを食べて、気楽そうに半日|喋舌《しゃべ》って遊んで行った。宿の娘から借りた琴が、主人公の方の懈《だる》い唄の声につれて掻き鳴らされた。
「騒々しくてしかたがない。」
 笹村は給仕している女中に顔を顰《しか》めたが、部屋を移ろうともしなかった。

     三十一

 二つに岐《わか》れた経済が持ちきれなくなって、笹村がほどなく下宿を引き払ったのは、谷中の友人の尽力でお銀の体のきまりがようやく着いてからであった。そのころには、甥もその姉婿につれられて、田舎へ帰っていた。
 甥はますます悪い方へ傾いていた。夜おそく浅草の方から車夫を引っ張って帰ったり、多勢の仲間をつれ込んで来て、叔父を威嚇《いかく》するようなこともしかねなかった。同勢は空屋《あきや》へ寄って来てほしいままに酒を呷《あお》ったり、四辺《あたり》憚《はばか》らぬ高声で流行唄を謳《うた》ったりした。
「どうか漬物を少し。」などと、腕まくりした年嵩《としかさ》の青年が、裏口から酔っぱらって来てお銀に強請《ねだ》った。
「新を呼んでおいで。」と、笹村は顔色を変えていた。
「うっちゃっておおきなさいよ。おっかなくてとても寄りつけませんから。」
 お銀は裏から覗いて来ては、その様子を笹村に話した。
 同勢は近所の酒屋や、天麩羅屋《てんぷらや》などを脅《おど》かした。
「叔父さんが何か言や、殺してしまうなんて言ってますよ。」
 笹村はお銀からこんなことも一、二度聞いた。
「おい、お前は己を殺すとか言ってるそうだが……。」
 笹村は日暮れ方に外から帰って来た甥の顔を見ると、いきなり詰《なじ》った。
 酒気を帯びていた甥は坐りもしなかった。そして、「殺してやろう。」と嶮しい目をしながら、台所の方へ刃物を取りに行った。
「あなたあなたお逃げなさいよ。」
 お銀がけたたましく叫ぶまもなく、出刃を持った甥が、後からお銀に支えられながら入って来た。
 台所で水甕《みずがめ》のひっくらかえる音などを聞きつけて、隣に借家していた大学生が裏口へ飛び出して来てくれた。
 外へ逃げ出した笹村が、家へ入って来たころには、甥の姿はもうそこには見えなかった。
「あんな優しい顔していて随分乱暴なことをするじゃありませんか」
 お銀は一晩気味悪がっていたが、笹村もあまりいい気持がしていなかった。そして甥が行李の底に収《しま》っていた白鞘《しらさや》の短刀を捜したが、それは見つからなくて、代りに笹村が大切に保存していたある人の手蹟を留《とど》めた唐扇《とうせん》などが出て来た。
 笹村の従弟《いとこ》にあたる甥の義兄が、賺《すか》して連れて行ってからも、笹村の頭には始終一種の痛みが残っていた。変人の笹村は、従弟などによく思われていなかった。
「あの方は、新ちゃんのことをそんなに悪くも思っていないですよ。」
 お銀も二人を送り出してから、それを気にしていた。
 友人がお銀のことについて、笹村の意嚮《いこう》を確かめに来たのは、そんな騒ぎがあってから間もなくであった。それまでに二人はたびたび顔を合わして、そのことを話し合っていた。笹村は相変らずM先生の仕事を急いでいたが、別れる別れぬの利害が、二人のあいだにしばらく評議された。
「僕の母なぞは別れるのは不賛成なんだが、とにかく子供のあまり大きくならんうちに片づけてしまいたまえ、手切れさえやればむろん承知するよ。それも君の言う半分で、大抵話がつこうと思う。」
 世故《せこ》に長《た》けた友人は、そう言って下宿を出て行った。
「君のこともちっとは悪く言うかも知れんから、それは承知していてくれたまえ。」友人は出るとき笹村に念を押した。
 友人が帰って来るまでには、大分手間が取れた。笹村は寝転んだり起きたりして、心に落着きがなかった。そしてそれがいず
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