町へ入ると、笹村はもだもだした胸の悩みがいつも吸い取られるようであった。
 まだ灯も点《とも》さない家のなかは、空気が冷や冷やして薄暗かった。お銀はちょうど茶の室《ま》の隅《すみ》の方に坐って、腹を抑《おさ》えていた。台所には母親が釜《かま》の下にちろちろ火を炊《た》きつけていた。
「今夜らしいんですよ。」
 お銀は眉を歪《ゆが》めて、絞り出すように言った。
「なかなかそんなことじゃ出る案じはないと思うが、でも産婆だけは呼んでおかないとね……。」
 母親は強《し》いて不安を押えているような、落ち着いた調子であった。
「それじゃ使いを出そうか。」
 笹村はそこに突っ立っていながら、押し出すような声音《こわね》で言った。
「そうですね。知れるでしょうか。……それよりかあなたお鳥目《あし》が……。」と、お銀は笹村の顔を見上げた。
「私|拵《こしら》えに行こうと、そう思っていたんですけれど、まだこんなに急じゃないと思って……。」
 笹村は、不安そうに部屋をそっちこっち動いていた。無事にこの一ト夜が経過するかどうかが気遣われた。稚《おさな》い時分から、始終劣敗の地位に虐《しいた》げられて来た、すべての点に不完全の自分の生立《おいた》ちが、まざまざと胸に浮んだ。それより一層退化されてこの世へ出て来る、赤子のことを考えるのも厭であった。
 お銀も、子供の話が出るたびに、よくそれを言い言いした。
「どんな子が産れるでしょうね。私あまり悪い子は産みたくない。」
「瓜《うり》の蔓《つる》に茄子《なすび》はならない。だけど、どうせ、育てるんじゃないんだから。」笹村も言っていた。
 お銀はひとしきり苦々《にがにが》していた腹の痛みも薄らいで来ると、自分に起《た》ってランプを点《とも》したり、膳拵えをしたりした。
「何だか私、このお産は重いような気がして……。」
 飯を食べていたお銀はしばらくするとまた箸を措《お》いて体を屈《かが》めた。
 笹村も箸を措いたまま、お銀の顔を眺めた。その目の底には、胎児に対する一種の後悔の影が閃《ひらめ》いていた。
 慌忙《あわただ》しいような夕飯が済むと、笹村は何やら持ち出して家を出た。母親もそれと前後して、産婆を呼びに行った。

     二十六

 少しばかりの金を袂《たもと》の底に押し込んで、笹村は町をぶらぶら歩いていた。出産が気にかかりながら、その場に居合わしたくないような心持もしていたので、しばらく顔を出さなかった代診のところへ寄って見た。笹村はいい加減に翫弄《おもちゃ》にされているように思って、三、四月ごろ注射を五本ばかり試みたきり罷《や》めていたが、やはりそれが不安心であった。
「このごろはちっとは快《い》いかね。」
 医師《いしゃ》はビールに酔った顔を団扇《うちわ》で煽《あお》ぎながら言った。
 笹村は今夜産れる子供を、すぐ引き取ってもらえるような家はあるまいかと、その相談を持ち出した。稚い時分近所同士であったこの男には、笹村は何事も打ち明けることを憚《はばか》らなかった。
「ないことはない。けど後で後悔するぞ。」と、医師はある女とのなかに出来た、自分の子を里にやっておいた経験などを話して聞かした。
「後のことなど、今考えていられないんだからね。」
 笹村はその心当りの家の様子が詳しく知りたかった。七人目で、後妻の腹から産れた子を、ある在方《ざいかた》へくれる話を取り決めて、先方の親爺《おやじ》がほくほく引き取りに来た時、※[#「兀+王」、第3水準1−47−62、211−上−17]弱《ひよわ》そうな乳呑《ちの》み児《ご》を手放しかねて涙脆《なみだもろ》い父親が泣いたということを、母親からかつて聞かされて、あまりいい気持がしなかった。それをふと笹村は思い浮べた。
「まア産れてからにする方がいい。」
 医師は相当に楽に暮している先方の老人夫婦の身のうえを話してから言った。
 笹村は丸薬を少し貰って、そこを出た。
 家へ帰ると、小さい家のなかはひっそりしていた。母親は暗い片蔭で、お産襤褸《さんぼろ》を出して見ていたが、傍にお銀も脱脂綿や油紙のようなものを整えていた。
 おそろしい高い畳つきの下駄をはいて、産婆が間もなくやって来た。笹村は四畳半の方に引っ込んで寝転んでいた。
「大丈夫大船に乗った気でおいでなさい。私はこれまで何千人と手をかけているけれど、一人でも失敗《しくじ》ったという例《ためし》があったら、お目にかかりません。安心しておいでなさいよ。」産婆は喋々《ちょうちょう》と自分の腕前を矜《ほこ》った。
 お産は明家《あきや》の方ですることにした。母親は一人で蒲団を運んだり、産婆の食べるようなものを見繕ったりして、裏から出たり入ったりしていた。笹村も一、二度傍へ行って見た。
 産気が次第について来た。お銀は充血したような目に涙をためて、顔を顰《しか》めながら、笹村のかした手に取り着いていきんだ。そのたんびに顔が真赤に充血して、額から脂汗《あぶらあせ》がにじみ出た。いきみ罷《や》むと、せいせい肩で息をして、術なげに手をもじもじさせていた。そして時々頭を抬《もた》げて、当てがわれた金盥《かなだらい》にねとねとしたものを吐き出した。宵《よい》に食べたものなどもそのまま出た。
 九時十時と不安な時が過ぎて行ったが、産婦は産婆に励まされて、いたずらにいきむばかりであった。体の疲れるのが目に見えるようであった。
「ああ苦しい……。」
 お銀は硬い母親の手に縋《すが》りついて、宙を見つめていた。
「どういうもんだかね。」
 十二時過ぎに母親は家の方へ来ると、首を傾《かし》げながら笹村に話しかけた。
「難産の方かね。」
 火鉢の傍に番をしていた笹村は問いかけた。
「まアあまり軽い方じゃなさそうですね。」
「医者を呼ぶようなことはないだろうか。」
「さあ……産婆がああ言って引き受けているから、間違いはあるまいと思いますけれどね。」
 そのうちに笹村は疲れて寝た。
 魘《うな》されていたような心持で、明朝《あした》目のさめたのは、七時ごろであった。
 茶の室《ま》へ出てみると、母親は台所でこちゃこちゃ働いていた。
 お銀はまだ悩み続けていた。

     二十七

 産婆が赤い背《せなか》の丸々しい産児を、両手で束《つか》ねるようにして、次の室《ま》の湯を張ってある盥の傍へ持って行ったのは、もう十時近くであった。産児は初めて風に触れた時、二声三声|啼《な》き立てたが、その時はもうぐったりしたようになっていた。笹村は産室の隅の方からこわごわそれを眺めていたが、啼き声を立てそうにすると体が縮むようであった。ここでは少し遠く聞える機械鍛冶の音が表にばかりで、四辺《あたり》は静かであった。長いあいだの苦痛の脱けた産婦は、「こんな大きな男の子ですもの。」と言う産婆の声が耳に入ると、やっと蘇《よみがえ》ったような心持で、涙を一杯ためた目元ににっこりしていたが、すぐに眠りに沈んで行った。汗や涙を拭き取った顔からは血の気が一時に退《ひ》いて、微弱な脈搏《みゃくはく》が辛うじて通っていた。
 産婆は慣れた手つきで、幼毛《うぶげ》の軟かい赤子の体を洗ってしまうと、続いて汚れものの始末をした。部屋にはそういうものから来る一種の匂いが漂うて、涼しい風が疲れた産婦の顔に、心地よげに当った。笹村の胸にもさしあたり軽い歓喜《よろこび》の情が動いていた。
「随分骨が折れましたね。」産婆はやっと坐って莨《たばこ》を吸った。
「このぐらい長くなりますと、産婆も体がたまりませんよ。私もちょッと考えたけれど、でも頭さえ出ればもうこっちのものですからね。」
「そんなだったですか。」と言うように笹村は産婆の顔を見ていた。
 頭が出たきりで肩がつかえていた時、「それ、もう一つ……。」と産婆に声をかけられて、死力を出していた産婦の醜い努力が、思い出すとおかしいようであった。
「もっと自然に出るということに行かないもんですかね。」
「そんな人もありますよ。けど何しろこのぐらいの赤ちゃんが出るんですもの。」と産婆は笑った。笹村は当てつけられているような気がして、苦笑していた。
 汚い聴診器で産婦の体を見てから、産後の心着きなどを話して引き揚げて行くと、部屋は一層静かになった。
 母親は黙って、そこらを片着けていたが、笹村も風通しのいい窓に腰かけて、いつ回復するとも見えぬ眠りに陥《お》ちている産婦の蒼い顔を眺めていたが、時々傍へ寄って赤子の顔を覗《のぞ》いて見た。
 その日は産を気遣って尋ねてくれた医師《いしゃ》と一緒に、笹村は次の室《ま》で酒など飲んで暮した。産婦は目がさめると、傍に寝かされた赤子の顔を眺めて淋しい笑顔を見せていたが、母親に扶《たす》けられて厠《かわや》へ立って行く姿は、見違えるほど痩せてもいたし、更《ふ》けてもいた。赤子は時々、じめじめしたような声を立てて啼いた。笹村は、牛乳を薄く延ばして丸めたガーゼに浸して、自分に飲ませなどした。
 翌朝《あした》谷中の俳友が訪ねて来た時、笹村は産婦の枕頭《まくらもと》に坐っていた。
「そう、それはよかった。」
 裁卸《たちおろ》しの夏羽織を着た俳友は、産室の次の室へ入って来ると、いつもの調子でおめでたを述べた。沈んだ家のなかの空気が、にわかに陽気らしく見えた。
「どうだね、それで……。」と、俳友はいろいろの話を聴き取ってから、この場合笹村の手元の苦しいことを気遣った。
「少しぐらいならどうにかしよう。」
「そうだね、もし出来たらそう願いたいんだが……。」笹村はそのことも頼んだ。
 二人の前には、産婦が産前に好んで食べた苺《いちご》が皿に盛られてあった。

     二十八

 産婦は長くも寝ていられなかった。足や腰に少し力がつくと、起き出して何かして見たくなった。大きな厄難《やくなん》から首尾よく脱《のが》れた喜悦《よろこび》もあったり、産れた男の子が、人並みすぐれて醜いというほどでもなかったので、何がなし一人前の女になったような心持もしていた。
 七夜には自身で水口へ出て来て、肴《さかな》を見繕ったり、その肴屋と医者とが祝ってくれた鯉《こい》の入れてある盥の前にしゃがんで見たり、俳友が持って来てくれた、派手な浴衣地《ゆかたじ》を取りあげて見たりしていた。産婆は自分の世話をするお終《しま》いの湯をつかわせて、涼風の吹く窓先に赤子を据え、剃刀《かみそり》で臍《へそ》の緒《お》を切って、米粒と一緒にそれを紙に包んで、そこにおくと、「ここへ赤ちゃんの名と生年月日時間をお書きになってしまっておいて下さい。」と、笹村に言った。
「あなた何かいい名をつけて下さいよ。」
 産婦は用意してあった膳部や、包み金のようなものをいろいろ盆に載せて、産婆の前においた。
「はじめてのお子さんに男が出来たんだから、あなたは鼻が高い。」と、無愛想な産婆もお愛想笑いをして猪口《ちょく》に口をつけた。
 笹村は苦笑いをしていたが、時々子供を抱き取って、窓先の明るい方へ持ち出しなどした。赤子は時々|鼠《ねずみ》の子のような目をかすかに明いて、口を窄《すぼ》めていたが、顔が日によって変った。ひどく整った輪廓を見せることもあるし、その輪廓がすっかり頽《くず》れてしまうこともあった。
「目の辺があなたに似てますよ。だけどこの子はお父さんよりかいい児になりますよ。」
 お銀はその顔を覗き込みながら言った。
 七夜過ぎると、笹村は赤子を抱いて、そっと裏へ出て見た。そして板囲いのなかをあっちこっち歩いて見たり、杜松《ひば》などの植わった廂合《ひさしあ》いの狭いところへ入って、青いものの影を見せたりした。赤子はぽっかり目を開いて口を動かしていた。目には木の影が青く映っていた。その顔を見ていると、笹村は淡い憐憫《れんびん》の情と哀愁とを禁じ得なかった。そしていつまでもそこにしゃがんでいた。
「早くやろうじゃないか。今のうちなら私生児にしなくても済む。」
 笹村は乳房を喞《ふく》んでいる赤子の顔を見ながら、時々想い出したように母親の決心を促した。
「私育て
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