く判りますよ。」お銀はまた易者のことを言い出した。
 笹村は翌日早く、その易者を訪ねたが、その日はあいにく休みであった。帰りに伝通院の横手にある大黒の小さい祠《ほこら》へ入って、そこへ出ているある法師《ぼうず》について観《み》てもらうことにした。法師は綺羅美《きらび》やかに着飾った四十近くの立派な男であった。在から来たらしい屈託そうな顔をした婆さんに低い声で何やら言って聞かしていたが、髪の蓬々《ぼうぼう》した陰気そうな笹村の顔を時々じろじろと見ていた。指環《ゆびわ》や時計をぴかぴかさした貴婦人が一人、手提げ袋をさげて、腕車《くるま》から降りて入って来ると、法師は笑《え》み交すようにしおしおした目をした。女はそのまま奥へ入って行った。
「これアとても……。」
 法師は水晶の数珠《じゅず》の玉を指頭《ゆびさき》で繰ると、本を開けて見ながら笹村に言いかけた。
「もう病気がすっかり根を張っている。」
「手術の効《かい》はないですか。」
「とても……。」と反《そ》りかえって、詳しく見る必要はないという顔をした。
 笹村は金の包みを三宝に投《ほう》り込むようにしてそこから出た。
 その日M先生を訪ねると、仕事場のようであった先生の部屋は綺麗に取り片着いていた。先生は髪などもきちんと分けて、顔に入院前のような暗い影が見えなかった。傍には他の人も来ていた。
「今朝も××が来て、この際何か書けるなら、出来るだけのことはするとか言ってくれたがね、まあ病気でも癒《なお》ってから願おうと言っておいた。己はこんなにまでなって書こうとは思わん。」と先生はその吝《しみ》ったれを嗤《わら》うように苦笑した。何もこの病人に書かさなくたって好意があるなら……という意味も聴き取れた。
「それに己は病気してから裕福になったよ。△△が昨日も来てハンドレッドばかり置いて行ってくれるし、何ならちっと御用立てしましょうかね。」と言って笑った。
 笹村は、M先生のある大きな仕事を引き受けることになってから、牛込《うしごめ》の下宿へ独りで引き移った。その前には、家族と一緒に先生の行っていた海岸の方へも一度訪ねて行って、二、三日をそこで遊んで過ごした。海岸はまだ風が寒く、浪《なみ》も毎日荒れつづいて、はっきりした日とてはなかった。笹村はちょうどまた注射の後の血が溷濁《こんだく》したようになって、頭が始終重く慵《だる》かった。酒も禁じられていた。
 牛込のその下宿は、棟が幾個《いくつ》にも分れて、綺麗な庭などがあったが、下宿人は二人ばかりの紳士と、支那人《しなじん》が一人いるぎりであった。笹村は、机とランプと置時計だけ腕車に載せて、ある日の午後そこへ移って行った。そして立ち木の影の多い庭向きの窓際に机を据えた。

     二十三

 下宿は昼間もシンとしていた。笹村は机の置き場などを幾度も替えて見たり、家を持つまで長いあいだこの近傍の他の下宿にいたころ行きつけた湯へ入りなどして、気を落ち着けようとしたが、旅にいるような心持で、何も手に着かなかった。それで寝転んだり起きたりしていると、もう午《ひる》になって、顔の蒼白い三十ばかりの女中が、膳を運んで来て、黙ってそこらに散らかったものを片着けなどする。膳に向っても、水にでも浸っていたように頭がぼーッとしていて、持ちつけぬ竹の塗り箸《ばし》さえ心持が悪かった。病気を虞《おそ》れるお銀の心着けで、机のなかには箸箱に箸もあったし、飯食い茶碗も紙に包んで持って来たのであったが、それはそのままにしておいた。
 それに生死の境にあるM先生の手助けであるから、仕事をしても報酬が得られるかどうかということも疑問であった。妙な廻り合せで、上草履一つ買えずにいる笹村は、もと下宿にいた時のように気ままに挙動《ふるま》うことすら出来なかった。
 飯がすむと、袋にどっさり貯えおきの胃の薬を飲んで、広い二階へ上って見た。二階には見晴しのいい独立の部屋が幾個《いくつ》もあったが、どちらも明いていた。病身らしい、頬骨《ほおぼね》と鼻が隆《たか》く、目の落ち窪《くぼ》んだ、五十三、四の主《あるじ》の高い姿が、庭の植込みの間に見られた。官吏あがりででもあるらしいその主の声を、笹村は一度も聞いたことがなかった。細君らしい女が二人もあって、時々厚化粧にけばけばしい扮装《なり》をして、客の用事を聞きに来ることのある十八、九の高島田は、どちらの子だか解らなかった。
 飲食店にでもいたことのあるらしい若い女中が、他に二人もいた。そして拭き掃除がすんでしまうと、手摺《てす》りにもたれて、お互いに髪を讃《ほ》め合ったり、櫛《くし》や簪《かんざし》の話をしていた。
「客もいないのに、三人も女がいるなんておかしいね。」笹村はそこらをぶらぶらしながら笑った。
「それアそうですけど、家は一晩二晩の泊り客がちょいちょいありますから……。」
 笹村は階下《した》へ降りて来て、また机の前に坐った。大きな西洋紙に書いた原稿の初めの方が二、三冊机の上にあった。笹村は錘《おもり》のかかったような気を引き立てて、ぽつぽつ筆を加えはじめた。やり始めると惰力で仕事がとにかくしばらくの間は進行した。時とすると、原書を翻《まく》って照合しなどしていた。ふと筆をおいて、疲れた体を後へ引っくら反《かえ》ると、頭がまたいろいろの考えに捉えられて、いつまでも打ち切ることが出来なかった。
 気が餒《う》えきって来ると、笹村はそっとにげるように宿の門を出た。足は自然に家の方へ向いた。
 お銀は寂しい下宿の膳のうえに載せるようなものを台所で煮ていた。
「私今車夫に持たしてやろうと思って……。」
 お銀は暑そうに額の汗を拭きながら、七輪の側を離れた。
 火鉢の傍に坐っていると、ゴーゴーいう鍛冶屋の機械の音が、いつも聞き馴《な》れたように耳に響いた。この音響のない世界へ行くと、笹村はかえって頭が散漫になるような気がした。
 夜おそく笹村は蓋物を提げて下宿へ還《かえ》って行った。そして部屋へ入ってランプを点《つ》けると、机の上の灰皿《はいざら》のなかに、赤い印肉で雅号を捺《お》したM先生の小形の名刺が入れてあった。笹村は、しばらく机に坐ってみたが、じきに火を細くして寝床へ入った。
 上総《かずさ》の方の郷里へ引っ込んでいる知合いの詩人が、旅鞄をさげて、ぶらりと出て来たのはそのころであった。そして泊りつけの日本橋の宿屋の代りに、ここの二階にいることになってから、笹村は三度三度のまずい飯も多少舌に昵《なじ》んで来た。
 中央文壇の情勢を探るために出て来たその詩人は、その時家庭の切迫したある事情の下にあった。自分自分の問題に苦しんでいる二人の間には、話が時々行き違った。

     二十四

 その詩人が、五日ばかりで帰ってしまうと、その時|齎《もたら》して来た結婚談《けっこんばなし》が、笹村の胸に薄い痕迹《こんせき》を留めたきりで、下宿はまた旧《もと》の寂しさに復《かえ》った。
 その結婚談は、詩人と同郷のかなり裕福なある家の娘であった。臥《ね》そべっていながら、その話を聞いていた笹村の胸は、息苦しいようであった。
 話の最中にその時めずらしく、笹村へ電話がかかって来た。かけ手は、笹村が一、二度|余所《よそ》で行き合わせたぎりで、深く話し合ったこともないある画家であったが、用事は笹村が家を持った当座、九州の旅先で懇意になった兄の親類筋に当る医学生が持って来て、少し運んだところで先方から寝返りを打たれた結婚談を復活しないかという相談であった。お銀の舞い込んで来たのは、ちょうど写真などを返して、それに絶望した笹村の頭脳《あたま》が、まだ全く平調に復りきらないころであった。
「今日は不思議な日だね。」いい加減に電話を切って座に復って来た笹村の顔には、興奮の色が見えた。
 笹村は破れたその結婚談から、お銀に移るまでの心持の経過を話しながらこうも言った。
「それに、僕は生理的に結婚する資格があるかということも、久しく疑問であったしね……。」
 詩人は不幸な友達の話を聞きながら、笑っていた。
 六月の初めごろには、M先生は床に就いていたが、就きッきりと言うほどでもなかった。そして寝ながら本の意匠を考えたり、ある人が持って来てくれた外国の新刊物などに目を通していた。中にはオブストロブスキイなどいう人の「ストルム」や、ハウプトマンの二、三の作などがあった。
「△△が是非読んでみろと言うから、目を通して見たけれど、これならさほどに言うほどのものでもない。」
 日本一の大家という抱負は、病に臥《ふ》してから一層先生の頭脳に確かめられて来たようであった。「人生の疑義」という翻訳書が、しばらく先生の枕頭《まくらもと》にあった。
「これを読んでごらん、文章もそんなに拙《まず》くはないよ。」
 これまで人生問題に没入したことのなかった先生は、ところどころ朱で傍線を引いたその書物を笹村に勧めた。
 断片的の話は、おりおり哲学にも触れて行った。周囲の世話を焼くのも、ただ一片の意気からしていた先生は、時々博愛というような語《ことば》も口に上せた。我の強かったこれまでの奮闘生活が先生の弱いこのごろの心に省みられるように思えた。
「己ももう一度思う存分人の世話がしてみたい。」先生は深い目色をしながら呟いた。
 病気にいいという白屈菜《くさのおう》という草が、障子を開け払った檐頭《のきさき》に、吊るされてあった。衆《みんな》は毎日暑さを冒して、遠い郊外までそれを採りに出かけた。知らぬ遠国の人から送って来るのもたくさんあった。先生は寝ていながら、干してあるその草の風に戦《そよ》ぐのを、心地よげに眺めていた。
「私は先生に、何か大きいものを一つ書いて頂きたいんですが……。」
 これまでそんなものをあまり重んじなかった笹村は、汐《しお》を見て頼んで見た。
 先生は、「そうさな、秋にでもなって茶漬けでも食えるようになったら書こう。」と、軽く頷《うなず》いた。
 笹村は黙ってうつむいてしまった。
 二、三人の人が寄って来ると、先生はいつまでも話に耽った。
「お前はこのごろ何を食っている。」
 先生は思い出したように訊《たず》ねた。
「そうでござんすな。格別これというものもありませんですからな。私ア塩辛《しおから》ばかりなめていますんです。」
 O氏は揶揄《からか》うように言った。
「笹村は野菜は好きか。」
「慈姑《くわい》ならうまいと思います。」
「そうさな、慈姑はちとうますぎる。」先生は呟いた。
 笹村は持って行った金の問題を言い出す折がなくてそのまま引き退《さが》った。

     二十五

 出産の時期が迫って来ると、笹村は何となく気になって時々家へ帰って見た。しばらく脚気《かっけ》の気味で、足に水気をもっていたお銀は、気懈《けだる》そうに台所の框《かまち》に腰かけて、裾を捲《まく》って裏から来る涼風に当ったり、低い窓の腰に体を持たせたりして、おそろしい初産の日の来るのを考えていた。興奮したような顔が小さく見えて、水々した落着きのない目の底に、一種の光があった。
 笹村はいくら努力しても、尨大《ぼうだい》なその原稿のまだ手を入れない部分の少しも減って行かないのを見ると、筆を持つ腕が思わず渋った。下宿の窓のすぐ下には、黝《くろ》い青木の葉が、埃を被って重なり合っていた。乾いたことのない地面からは、土の匂いが鼻に通った。笹村は視力が萎《な》えて来ると、アアと胸で太息《といき》を吐《つ》いて、畳のうえにぴたりと骨ばった背《せなか》を延ばした。そこから廊下を二、三段階段を降りると、さらに離房《はなれ》が二タ間あった。笹村はそこへ入って行って、寝転んで空を見ていることもあった。空には夏らしい乳色の雲が軽く動いていた。差し当った生活の欠陥を埋め合わすために何か自分のものを書くつもりで、その材料を考えようとしたが、そんな気分になれそうもなかった。
 往来に水を撒《ま》く時分、笹村は迎えによこした腕車《くるま》で、西日に照りつけられながら、家の方へ帰って行った。窪みにある静かな
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