れへ転んだ方が幸いなのか自身に判断がつかなかった。強《し》いて判断しようとも思っていなかった。
「いろいろ逢って話をしてみたがね。」友人は笹村の部屋へ引き返して来ると、予期と反したような顔をして、低声《こごえ》で言った。
「あれは君、一緒になった方がかえっていいかも知れないね。」友人は息をついでから断《き》れ断《ぎ》れに話し出した。
「君のあの女に対する態度から、あの女が今日まで君のために尽して来たことなどを聞くと、先方《さき》の言い分にも理窟《りくつ》があるよ。それにだんだん話してみると苦労もしているし、相当にわけも解っているようなんだ。本人の考えも、僕らの思惑《おもわく》とちっと違ったところもある。第一、乳を呑ましている赤ちゃんの顔を眺めて泣かれるには、僕も閉口したよ。」
一緒になる場合の条件などについて、二人はしばらく語り合った。
「ちょッと男をチャームするところのある女だ。」友人は呟いた。
「いずれ話のすんだ時分に僕も後から行こう。」笹村は再び出向いて行く友人を送り出しながら言った。
三十二
友人が一緒になる場合の条件などを提げて出て行ってから、二時間ばかり経つと、笹村も撓《たわ》められた竹が旧《もと》へ弾《は》ね返るような心持で家へ帰った。
夜になってから、三人は奥の六畳で花など引いて遊んだ。女の態度や仕打ちについて、笹村の始終友人に零《こぼ》していたことが、その日の女の弁解でほぼ友人の胸に釈《と》けていたことは、友人の口吻《くちぶり》でも受け取ることが出来た。女の言うことには、きちんとした条理が立っていた。
「僕も笹村君とは長いあいだのお交際《つきあい》ですが、今度のように困ったことはかつてなかったですよ。」と、いきなり友人の打《ぶ》っつかって行った時に、女は黙って聞いていた。
「……とにかく僕に委《まか》して下さい。別れてからあなたが商売でもしようと言うのなら、及ばずながら僕も出来るだけの心配はして見るつもりです、決して悪いようにはしない。」
友人はそこまで話を進めて行った。
女は笹村に対する自分の態度についてかえって友人に批判を仰ごうとした。夜具一つなかったこの家へ来てからの自分の骨折り――笹村のおそろしい気むらなこと、苦しい体をして始終質屋通いまでしたこと、自分の手で拵えた金で、ちょいちょい笹村の急場を救ったことなどが言い出された。
「笹村も、私が何か欲にでも絡《から》んでこの家にいるようなことを始終言いますけれど、そのくらいなら私だってもっと行くところもありますんです。私もこの子には引かされますし、一度|失敗《しくじ》ってもいるものですから、今度またまごつくようなことでもあれば、それこそ親類に顔向けも出来ませんのでございます。」
母親も重い口で、傍から言い添えるのであった。
そんな話の順序や、お銀のその時の態度は、友人の簡短な話で想像することが出来た。笹村は冷たいようなその条理だけは拒むことは出来なかった。そして一緒になるについても不服はなかったが、女の心持がしみじみ自分の胸に通って来るとは思えなかった。打ち解けたときの女の様子や口の利き方には心を惹《ひ》かれるところがあったが、温かい感情の融け合うようなことはあまりなかった。笹村の頭の底には、そこに淡い不満も暗い優愁もあったが、今はそれを深く顧みる余裕もなかった。
花はかなりにはずんだ。頭脳《あたま》の悪い笹村は引いているうちに、時々札の見えなくなるようなことがあった。そして思いがけないところで、思いがけない手違いをやった。お銀は笹村を庇護《かば》うようにしては、花が引きづらかった。
お銀の手で、青が出来かかった時、じらしていた友人が、牡丹《ぼたん》を一枚すんなりしたその掌《てのひら》に載せて、剽軽《ひょうきん》な手容《てつき》でちらりとお銀の目前《めさき》へ突きつけて見せた。
「お気の毒さま、一人で花を引いてるんじゃありませんよ。」
「ちょッ憎らしい。」お銀はぴしゃんとその手を打った。
花札が箱のなかへしまい込まれたのは、大分遅かった。皆の顔には疲労の色が見えていた。笹村は頭がぼうッとしていた。
「どうもとんだ御心配をかけまして、有難うございました。おかまいもしませんで……お家へもどうぞよろしく……。」
しばらく話をしてから、帰って行く友人を送り出しながら、お銀は戸を締めて入って来た。髪を引詰《ひっつ》めに結ったその顔は、近ごろようやく肉があがりかけて来た。
笹村はランプを瞶《みつ》めながら、舌にいらいらする手捲き莨を喫《ふか》していたが、今日話をきめてしまったことが何となく悔いられるようにも思えて来た。花を引いていた間の女のだらけたような態度が腑《ふ》に落ちかねるような気もした。
「ああいう軽卒《かるはずみ》なことは慎んでもらいたい。」
笹村はお銀が友人の手を打った時のことを口へ出して言った。
「あれがBさんだったからいいようなものの、ほかの人だったら、随分変に思うだろう。あんなことをしてお前ははずかしいとも思わんのか。」
「……ちッとも気がつきませんでしたよ。私そんなことをして。それは花を引いているんですから、そう硬くばかりもしていられませんから、調子に乗ってしたかも知れませんけれど……。」
お銀はそう言いながら、子供に乳房を含ませた。そんなことを気にする笹村の言い草がかえって不思議に思われた。
三十三
仕事は少しずつ捗取《はかど》って来た。進行するにつれて原文に昵《なず》んでも来たし、訂正の骨《こつ》も自然《ひとりで》に会得されて来た。作そのものにも興味が出て来た。それに長いあいだの問題が、とにかくひとまず解決を告げたので、いくらか頭も軽くなっていたから、息もつかずずんずん筆を着けて行くことが出来た。
二、三日手から放さなかった筆をおいて、笹村はふと想い出したように家の方へ行って見た。入って行くと、子供は産衣《うぶぎ》そのままの姿《なり》で、蚤《のみ》を避けるために、風通しのよい窓の側に取り出した一閑張りの広い机のうえに寝かされてあった。八月の半ばすぎで、暑さはまだ烈《はげ》しかった。子供の目の先には、くるくる風に廻っている風車などがあった。笹村はその顔を見ると、哀れなような気がした。
お銀は箪笥《たんす》のうえにおいてあった浴衣地を卸《おろ》して来て、笹村に示《み》せた。
「もう正一のお宮詣《みやまい》りですよ、着のみ着のままであまり可哀そうですから、私|昨夜《ゆうべ》こんなものを二枚分買って来ましたの。安いもんじゃありませんか、これでようやく七十五銭……。」と言って、お銀は淋しい笑い方をした。
笹村は窓の傍に腕まくりをしながら、脚を投げ出していた。母親は台所で行水の湯を沸かしていた。
「この子に初めて拵える着物が七十五銭なんて、私可哀そうなような気がして……。」と、お銀は涙含《なみだぐ》んでいた。
「一枚でたくさんじゃないか。それにこの柄というのはないな。」笹村は呟いた。
「そう言うけれど、ちょっといいじゃありませんか。子供にはこういうものがいいんですよ。それに有片《ありぎれ》だから、不足も言えませんわ。」
「医師《いしゃ》の話のところへ、くれてやればよかったんだ。」
「でもまアいいわ。いくら物がなくたって、他人の手に育つことを考えれば……。」
お銀はせめて銘仙《めいせん》かメリンスぐらいで拵えてやりたかったが、それを待っていると拵える時が来そうにも思えなかった。
「それに、お宮詣りに行かないとしても、祝ってもらったところへだけは配り物をしなければなりませんからね。先の煙草屋などでは、毎日それを聞いてるんですよ。ここはお品のわるいところですけれど、そう貧乏人はいませんからね、出来ることなら氏神さまへ連れて行ってやりたいんですがね。」
西日のさす台所で、丹念な母親は子供に行水をつかわせた。お銀も袂を捲《まく》りあげて、それを手伝った。やがてタオルで拭かれた子供の赭《あか》い体には、まだらに天花粉《てんかふん》がまぶされた。
「きれいな子ですよ。お腫物《でき》一つできない……。」と言って、お銀は餅々《もちもち》したその腿《もも》のあたりを撫でながら、ばさばさした襁褓《むつき》を配《あてが》ってやった。子供は吹き込む風に、心持よさそうに手足をばちゃばちゃさしていた。
夕方飯がすんでから、笹村はM先生のもとを訪ねた。先生は涼しい階下《した》の離房《はなれ》の方へ床をのべて臥《ね》ていた。そのころ先生の腫物《しゅもつ》は大分痛みだしていた。面変《おもかわ》りしたような顔にも苦悶《くもん》の迹《あと》が見えて、話しているうちに、時々意識がぼんやりして来るようなことがあった。起き直るのも大儀そうであった。
笹村は下宿の不自由で、仕事をするに都合の悪いこと、そこを引き払いたいということなどを話して、それとなく金を要求した。
「なにか用だったか。」
先生はまるで見当違いの挨拶をした。口の利き方もいつものような明晰《めいせき》を欠いていた。病勢のおそろしく増進して来た先生の内部には、生きようとする苦しい努力、はかない悶《もだ》えがあった。日ごとに反抗の力の弱って行く先生は、笹村の苦しい事情に耳を傾けるどころではなかった。
「己もまだ先方から受け取らんのだから……。」と先生はしぶしぶ傍にあった鞄から、札を幾枚か取り出して笹村に渡した。そんな鞄を控えているということは、先生のこれまでには見られない図であった。
笹村は疚《やま》しいような気がした。原稿の出来るのと、先生の死と――いずれが先になるか、それは笹村にも解っていなかった。
三十四
とにかく下宿を引き払って来た笹村は、また旧《もと》の四畳半へ机を据えることになった。近所にはその一ト夏のあいだに、人が大分|殖《ふ》えていた。正一と前後して産れたような子供を抱いて、晩方門に立っている内儀さんの姿も、ちらほら笹村の目についた。お銀がよくつれて来て、菓子をくれたり御飯を食べさしたりして懐《なつ》けていた四ツばかりの可愛い男の子も、しばらく見ぬまに大分大きくなっていた。その子は近所のある有福な棟梁《とうりょう》の家の実の姉弟《きょうだい》なかに産れたのだという話であった。
「自分に子をもってみると、世間の子供が目について来るから不思議ですね。」
お銀は格子に掴《つか》まって、窓へ上ったり下りたりしているその子供の姿をじっと眺めていた。その姿はどこか影が薄いようにも思えた。
「今のうちは何にも知らないで、こうやって遊んでいるけれど、大きくなったら、これでもいろいろのことを考えるでしょうよ。」
笹村も陰気なその家のことを考えないわけに行かなかった。嫁に行くこともできずにいる子供の母親は、近ごろまた年取った町内の頭《かしら》とおかしいなかになっていた。
向うの煎餅屋《せんべいや》の娘が、二つになる男の子を、お銀のところへ連れ込んで来て、不幸な自分の身のうえを話しながら、子供の顔を眺めて泣いていた。その子供の父親は、芝の方のある大きな地主の道楽|子息《むすこ》であった。そして今は親から勘当されて、入獄していた。子供は女がお茶屋に奉公している時に出来たのであった。お銀も貰い泣きをしながら、子供に涎掛《よだれか》けを出してくれなどした。
「あの子は育たないかも知れませんよ。阿母《おっか》さんは心配して乳が上っているんですもの。脚など、自家《うち》の子くらいしけアありませんよ。」
「死ねばあの女の体も浮ぶんだろうが……。」と、そういう笹村は、まだ子供を育てるような心持になりきっていなかったが、それでも子供の病気をした時には、心を惹《ひ》きつけられずにはいられなかった。
夕方お銀に抱かれて、表を見せられていた子供は、不意にどーッと乳を吐き出して、泣くことも出来ずに苦しんだ。
「あなたあなた、正一が大変ですよ……。」と、お銀は叫びながら家へ駈《か》け込んで来た。
子供は先天的に、胃腸の弱い父親の素質を受け継いでいるように思
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