えた。お銀は急いで医者へ連れて行ったが、その晩は徹宵《よっぴて》母親が床のうえに坐って、冷えやすい病児の腹を、自分の体で温めていた。笹村はしみ着くようなその泣き声に幾度となく目を覚まされたが、無慈悲な考えが時々頭に閃いていた。
久しくお銀|母子《おやこ》が顔を見せなかったので、下谷の親類の婆さんがある日の晩方、不意に訪ねて来た。子供を寝かしつけていたお銀は、頓狂《とんきょう》なその声が耳に入ると、急いで裏へ子供を抱き出したが、小さい枕だけは隠す隙《ひま》がなかった。
「どうしたえ、この枕は……。」と、婆さんはじろじろそれを眺めていた。
お銀は笑い笑い、やがて子供を抱いて入って来た。
「お前の子かえ、それは……。」婆さんも笑い出した。
「道理で様子が変だと思った。倅《せがれ》などはとうから気がついていたぞえ。」
三十五
この婆さんの報知《しらせ》で上京して来たお銀の父親が、また田舎へ引き返して行ってから間もなく籍が笹村の方へ送られた。
東京でもいろいろのことをやって味噌《みそ》をつけて行った父親は、製糸事業で失敗してから、それを挽回《ばんかい》しようとして気を焦燥《あせ》った結果、株でまた手痛くやられた、自分の甥にあたる本家の方の家の始末などにかかっていた。それが婆さんの二番目の子息《むすこ》になる欽也《きんや》という医者に伴《つ》れられて、笹村の家へ来たのは、もう朝晩に袷羽織《あわせばおり》がほしいような時節であった。笹村は、それまでにその欽也という男に二度も逢っていた。遠い縁家先のある旧家を継ぐことになっていた欽也は、お銀からは「兄さん兄さん」と呼ばれていた。欽也がお銀を妹以上に愛していることも、笹村の目に見えた。
「おばさんは、私と兄さんと一緒にするつもりか何かだったんでしょうけれど……。」と、お銀は古い時分からのことを言い出して、淋しく笑っていた。「兄さんを一度呼んで下さいよ。」と、お銀は笹村に強請《ねだ》り強請りしていた。
一度谷中の友人と、その時も花を引いていたのを機会として、笹村は車夫に腕車《くるま》を持たせて迎えにやった。欽也は気取った医師《いしゃ》らしい風をしてじきにやって来たが、笹村の方からもその後お銀と一緒に出かけて行った。そして連れ立って寄席《よせ》など聞きに入った。子好きの欽也はいつでも正一を手から放さなかった。
五十五、六にもなったかと思われるお銀の父親は無口な行儀のよい人であった。噂に聞いていた、酒と女とで身代を潰《つぶ》した男とは受け取れぬほどであった。
「父もしばらくのまにめっきり弱ってしまいましたよ。前に東京にいたころはあんなじゃなかったんですがね。」と、お銀はその晩酒に酔った父親が、寝所へ入ってから笹村に話しかけた。
「年のせいもあるでしょうけれど、本家が潰れかかっているので、すっかり力を落したんでしょうよ。父は、自分はどんなめちゃをやっても、本家があるからという気が、始終していたんですからね。」
そういうお銀自身も、それには少からず失望しているらしかった。
笹村はそんなことを考えてみようとも思っていなかった。お銀の生立ち、前生涯《ぜんしょうがい》、家柄、その周囲の人たち――そんなことは、自分の祖先のことすら聞こうとしたことのない笹村には、一顧の価値すらなかった。笹村は時々兄から祖先のことを言い聞かされることがないでもなかった。自分の母親の実家に伝わったいろいろの伝説なども小耳に挟《はさ》んでいた。朝鮮征伐から分捕《ぶんど》って来た荒仏《あらぼとけ》、その時代の諸将の書翰《しょかん》、太閤《たいこう》の墨附《すみつき》……そんなような物をいろいろ見せられた幼時の記憶も長いあいだ忘られていた。時々振り顧って見る気になるのは、自分の体質の似ているといわれた母方の祖父ぐらいのものであった。その祖父は公債を友人に横領されたのを憤って、その男を刺して自分も割腹して死んだといわれていた。零落《おちぶ》れた家の後添えの腹に三男として産れて、頽廃《たいはい》した空気のなかに生い立って来た笹村の頭には、家庭とか家族とかいうような観念もおのずから薄かった。はかない芸術上の努力で、どうかして生きられるものならば……と、それに縋《すが》りついて、この六、七年一日一日と引き摺《ず》られて来た笹村は、お銀との長い将来のことなどは、少しも考えていなかった。
「君の頭脳《あたま》で、まアとにかくあの女を躾《しつ》けて行きたまえ。」
こう言ってくれた友人の言葉にも、笹村は全く無感覚であった。
翌日笹村が起きたとき、父親は母親と一緒に茶の間で朝茶を飲んでいた。こうして一緒に茶を飲むなどということの、近来めったになかった母親の顔には、包みきれぬ喜悦《よろこび》の色があった。大分経ってから後で知ったことではあったが、昔二人が狎《な》れ合った時のことが、笹村にも想像され得るようであった。
三十六
M先生が病苦を忘れるために折々試みていたモルヒネ注射も、秋のころは不断のようになっていた。注射が効力をもっている間の先生の頭脳《あたま》は、頸垂《うなだ》れた草花が夜露に霑《うるお》ったようなものであった。
「何ともいえぬ微妙な心持だ。」と言って、先生も限られたその時間の消えて行くのを惜しみ惜しみした。
先生の仕事のもう揚《あが》っている笹村は、慌忙《あわただ》しいような心持で、自分の創作に執りかかっていた筆をおいて、時々先生の様子を見に行った。衆《みんな》は交替に、寂しい病室に夜のお伽《とぎ》をすることになっていた。先生の発言で、めいめい食べ物を持ち寄って、それを拡げながら夜すがら酒をちびちび飲んでいることもあった。お銀は笹村のために、鶏と松茸《まつたけ》などを蓋物に盛った。
「うまいものを食っているね。」などと、先生は戯れた。
ある日も笹村は、八時ごろまで書いていて、それから思い出して出かけた。雨風のかなり劇しい晩で、町には人通りも少かった。
床ずれの痛い寝所《ねどこ》にも飽いて、しばらく安楽椅子にかかっている先生の面《おもて》はすっかり変っていた。浅黒かった皮膚の色が、蚕児《かいこ》のような蒼白さをもって、じっと目を瞑《つむ》っている時は、石像のように気高く見えた。髪も短く刈り込まれてあった。先生が睡りに沈んで来ると、衆《みんな》は次の室へ引き揚げた。来合わせていた某《なにがし》の画家が、そこにあった画仙紙《がせんし》などを拡げて、とぼけた漫画の筆を揮《ふる》った。先生や皆の似顔なども描かれた。俳句や狂句のようなものも、思い思いに書きつけられた。夜が更けるにつれて、興も深くなって来た。その笑い声が、ふと先生の睡りをさました。
「あーッ。」と長い溜息が、持て余しているような先生の躯《からだ》から漏《も》れて来た。じろりと皆の顔を見る目のうちにも、包みきれぬ不安があった。
「どれお見せ。」
いらいらしたような先生の顔には、淋しい微笑の影がさして来た。そして自身にも筆を取って、句案に耽《ふけ》った。
夜があけてから、一同はそこを引き揚げた。山の手の町には、柿の葉などが道に落ち散って、生暖かい風に青臭い匂いがあった。
「先生は自覚しているんだろうか。」
「家族の人たちを失望させたくないために、わざとああした態度を取っていられるようにも見えるね。しかし病人の頭は案外暗いからね。」
門を出てからO氏と笹村とはこんな話をしながら行《ある》いていた。
初めて惨《いた》ましい診断を受けたおりの先生に対した時の絶望の心持は、二人の胸に少しずつ萎《な》やされていた。
「もう癌《がん》は胃の方ばかりじゃないそうだ。咽喉《のど》の辺へも来ているということだ。」
こんな私語《ささやき》が、誰からともなく皆の耳に伝わったころには、笹村も先生と話をするような機会があまりなかった。
医師の発言で使いや電報がそれぞれ近親の人たちの家へ差し向けられたのは、それから間もないある夜の深更であった。
高く積みあげられた病床の周《まわ》りへ、人々はぽつぽつ寄って来た。
「こら、こんなだ。」と、心臓の悪いある画伯が、真先に駈け着けて来ると、蒼い顔をしてせいせい息をはずませながら入って来た。
昏睡《こんすい》状態にあった患者が、朝注射で蘇《よみがえ》ったように※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、226−下−19]《みひら》いた目に、取り捲《ま》いている多勢の人の顔がふと映った。部屋にはしめやかな不安の空気が漲《みなぎ》っていた。静かに段梯子を上り下りする跫音《あしおと》も聞えた。そして、それが患者におそろしい暗示を与えた。
三十七
一時劇しい興奮の状態にあった頭が、少しずつ鎮《しず》まって来ると、先生は時々近親の人たちと語《ことば》を交しなどした。その調子は常時《いつも》と大した変りはなかった。
興奮――むしろ激昂《げっこう》した時の先生の頭脳《あたま》はいたましいほど調子が混乱していた。死の切迫して来た肉体の苦痛に堪えかねたのか、それとも脱れることの出来ぬ冷たい運命の手を駄々ッ子のように憤ったのか、啜《すす》りあげるような声でいろいろのことが叫び出された。
苦痛が薄らいで来ると、先生の様子は平調に復《かえ》った。時々うとうとと昏睡状態に陥ちることすらあった。長いあいだの看護に疲れた夫人を湯治につれて行ってやってくれとか、死骸《しがい》を医学界のために解剖に附してくれとかいうようなことが、ぽつぽつ言い出された。
「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑《ほほえ》んだ。
「みんなまずい顔を持って来い。」と叫んだ先生は、寄って行った連中の顔を、曇《うる》んだ目にじろりと見廻した。
「……まずい物を食って、なるたけ長生きをしなくちゃいけない。」先生は言い聞かした。
腰に絡《まつわ》りついている婦人連の歔欷《すすりなき》が、しめやかに聞えていた。二階一杯に塞《ふさ》がった人々は息もつかずに、静まり返っていた。後の方には立っている人も多かった。
先生の息を引き取ったのは、その日の午後遅くであった。
葬式が出るまでには、笹村は二度も家へ帰った。急いで書き揚げられた原稿を売りに、ある雑誌の編輯者《へんしゅうしゃ》の自宅を訪ねなどもした。生前M先生と交渉のなかったその記者は、周りにいろいろの陶器を集めて楽しんでいた。そしてとろ[#「とろ」に傍点]火で湯を沸かしてある支那製の古い土瓶について説明して聞かした。
薄汚い焼物が、棚から卸《おろ》されたり、箱のなかから恭《うやうや》しく取り出されたりした。そして一々説明が附せられた。その記者が書きかけている小説の思構《しこう》なども話された。それは昔の吉原の地震を材料にしたもので、仏教から得て来た因果律のような観念が加わっていた。
笹村は厭な顔もせずに、それを聴いていたが、葬式の時の自分の準備のことが気にかかった。話好きの記者は、サビタのパイプを磨《みが》きながら、話をいろいろの方へ持って行った。
牛込へ帰って来ると、今朝しとしと降る雨のなかを、縁先から釣り台に載せられて、解剖室の方へ運ばれて行った先生の死骸が、また旧のとおり綺麗に縫いあわされて、戻って来てから、大分経った後であった。玄関には弔《くやみ》に来る人影もまだまれであった。
「先生はやはり異常な脳を持っていられたそうだ。」
玄関ではそんな話が始まっていた。
「どうして解剖などということを言い出したろう。」
笹村は死際までも幾分人間|衒気《げんき》のついて廻ったような、先生の言出しを思わないわけに行かなかった。
「私もお葬式《とむらい》が見たい。」
支度をしに、笹村が家へ帰ったときお銀は甘えるように言ったが、先に半年ばかり縁づいていた家の親類のいる牛込のその界隈が、心遣《こころづか》いでもあった。
葬式の出る前は沸騰《にえかえ》るようなごたつきであった。家の内外《うちそと》には、ぎッしり人が塞《つま》って、それが秩序もなく動いていた。
葬式
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