※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、195−下−22]《はさ》んでいた。
「……とにかく深山のことはあまり言わんようにしていたまえ。そうしないとかえって君自身を傷つけるようなもんだからね。」B―は戒めるように言った。
笹村は深山との長い交遊について、胸にぶすぶす燻《くすぶ》っているような余憤があったが、それを言えば言うだけ、自分が小さくなるように思えるのが浅ましかった。
「……僕はいっそ公然と結婚しようと思う。」
女の話が出たとき、笹村は張り詰めたような心持で言い出した。
「その方がいさぎよいと思う。」
「それまでにする必要はないよ。」B―は微笑を目元に浮べて、「君の考えているほど、むつかしい問題じゃあるまいと思うがね。女さえ処分してしまえば、後は見やすいよ。人の噂も七十五日というからね。」
「どうだね、やるなら今のうちだよ。僕及ばずながら心配してみようじゃないか。」B―は促すように言った。
笹村はこれまで誰にも守っていた沈黙の苦痛が、いくらか弛《ゆる》んで来たような気がした。そしていつにない安易を感じた。それで話が女の体の異常なことにまで及ぶと、そんなことを案外平気で打ち明けられるのが、不思議なようでもあり、惨《いた》ましい恥辱のようでもあった。
「へえ、そうかね。」
B―は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、196−上−23]《みは》ったが、口へは出さなかった。そしてしばらく考えていた。
「それならそれで、話は自然身軽になってからのことにしなければならんがね。しかしいいよ、方法はいくらもあるよ。」
蕭《しめや》かな話が、しばらく続いていた。動物園で猛獣の唸《うな》る声などが、時々聞えて、雨の小歇《こや》んだ外は静かに更けていた。
「僕はまた君が、そんなことはないと言って怒るかと思って、実は心配していたんだよ。打ち明けてくれて僕も嬉しい。」
帰りがけに、B―はそう言ってまた一ト銚子|階下《した》へいいつけた。
幌《ほろ》を弾《は》ねた笹村の腕車《くるま》が、泥濘《ぬかるみ》の深い町の入口を行き悩んでいた。空には暗く雨雲が垂れ下って、屋並みの低い町筋には、湯帰りの職人の姿などが見られた。
「今帰ったんですか。」
腕車と擦れ違いに声をかけたのは、青ッぽい双子《ふたこ》の着物を着たお銀であった。
「どうでした。」
「医者へ行ったかね。」
「え、行きました。そしたら、やはりそうなんですって。」
腕車の上と下とで、こんな話が気忙《きぜわ》しそうに取り交された。
笹村が腕車から降りると、お銀もやがて後から入って来て、火鉢の方へ集まった。
十七
「医者はどういうんだね。」
笹村は少し離れたような心持で、女に訊き出した。笹村はまずそれを確かめたかった。
「お医者はいきなり体を見ると、もう判ったようです。これが病気なものか、確かに妊娠だって笑っているんですもの。それに少し体に毒があるそうですよ。その薬をくれるそうですから……。」
「幾月だって……。」
「四月だそうです。」
「四月。厭になっちまうな。」
笹村は太息《といき》を吐《つ》いた。そしておそろしいような気持で、心のうちに二、三度月を繰って見た。
その晩は一時ごろまで、三人で相談に耽《ふけ》っていた。笹村は出来るだけ穏かに、女から身を退《ひ》いてもらうような話を進めた。その話は二人にもよく受け入れられた。
「あなたの身が立たんとおっしゃれば、どうもしかたのないことと諦《あきら》めるよりほかはござんしねえ。御心配なさるのを見ていても、何だかお気の毒のようで……。」母親は縫物を前に置きながら言った。
「どうせ娘《これ》のことは、体さえ軽くなればどうにでもなって行きますで。」
そう決まると笹村は一刻も速く、この重荷を卸《おろ》してしまいたかった。そして軽卒《かるはずみ》のようなおそろしい相談が、どうかすると三人の間に囁《ささや》かれるのであった。笹村の興奮したような目が、異様に輝いて来た。
「そうなれば、私がまたどうにでも始末をします。――そのくらいのことは私がしますで。」
そう言う母親の目も冴《さ》え冴《ざ》えして来た。
「だけどうっかりしたことは出来ませんよ。」お銀は不安らしく考え込んでいた。
「なアに、めったに案じることはない。」
明朝《あした》目がさめると、昨夜《ゆうべ》張り詰めていたような笹村の心持が、まただらけたようになっていた。頭も一層重苦しく淀《よど》んでいた。昨夜|逸《はず》んだような心持で母親の言い出したことを考え出すとおかしいようでもあった。
笹村は何も手につかなかった。そして究《つま》るところは、やはり昨夜話したようにするよりほかなさそうに考えられた。
「産れて来る子供の顔が、平気で見ていられそうもないからね。」
笹村は、冴え冴えした声でいつに変らず裏で地主の大工の内儀《かみ》さんと話していたお銀が入って来ると、じきに捉《つかま》えてその問題を担ぎ出した。
「そうやっておけば、一日ましに形が出来て行くばかりじゃないか。」
「え、そうですけれど……。」
お銀はただ笑っていた。
「今朝は何だかこう動くような気がしますの。」
お銀は腹へ手を当てて、揶揄《からか》うような目をした。
「だけど、そう一時に思いつめなくてもいいじゃありませんか。あなたはそうなんですね。」
お銀は不思議そうに笹村の顔を見ていた。
気がくさくさして来ると、お銀は下谷の親類の家へ遊びに行った。
「今日は一つ小使いを儲《もう》けて来よう。」と言って化粧などして出て行った。
親類のうちでは、いつでも二、三人の花の相手が集まった。「兄さん」のお袋に友達、近所に囲われている商売人あがりの妾などがいた。お銀はその人たちのなかへ交って、浮き浮きした調子で花を引いた。そこで磯谷の噂なども、ちょいちょい耳に挟《はさ》んだ。
「お前も何だぞえ、そういつもぶらぶらしていないで、また前のような失錯《まちがい》のないうちに田舎へでも行って体を固めた方がいいぞえ。」
そこのお婆さんは顔さえ見ると言っていたが、お銀はどちらへ転んでも親戚の厄介《やっかい》になぞなりたくないと思っていた。どんなに困っても家のない田舎へなぞ行こうと思わなかった。
十八
暮に産をする間の隠れ場所を取り決めに、京橋の知合いの方へ出かけて行ったお銀は、年が変ってもやはり笹村の家に閉じ籠《こも》っていた。
笹村にせつかれて、菓子折などを持って出かけて行くまでには、お銀は幾度も躊躇《ちゅうちょ》した。丸薬なども買わせられて、笹村の目の前で飲むことを勧められたが、お銀は売薬に信用がおけなかった。「そのうち飲みますよ。」と、そのまま火鉢のなかにしまっておいた。薬好きな笹村は、始終いろいろな薬を机の抽斗に絶やさなかった。知合いの医者から無理に拵えてもらったのもあるし、その時々の体の状態を自分自身で考えて、それに応じて薬種屋から買って来たのもある。それにお銀の体に毒気があるということを聞いてからは、一層自分の体に不安が増して来た。血色は薄いが、皮膚だけは綺麗であったお銀の顔に、このごろ時々自分と同じような、ぼつりとしたものが出来るのも不思議であった。明るかった額から目のあたりも一体に曇《うる》んで来た。そして何か考え込みながら、窓から外を眺めている時の横顔などが、その気分と相応《そぐ》わないほど淋しく見られることがあった。
「お産をすると毒は皆おりてしまうそうですよ。」
病気を究《きわ》めようともしないお銀は、大して気にもかけぬらしかったが、どこへどうなって行くとしても、産れる子に負うべき責任だけは笹村も感じないわけに行かなかった。
「それじゃあなたは、自分にそんな覚えでもあるんですか。」お銀は笹村に反問した。
笹村は学校を罷《や》めて、検束のない放浪生活をしていた二十《はたち》時分に、ふとしたことから負わされた小さな傷以来、体中に波うっていた若い血がにわかに頓挫《しくじ》ったような気が、始終していた。頭も頽《くず》れて来たし、懈《だる》い体も次第に蝕《むしば》まれて行くようであった。酒、女、莨、放肆《ほうし》な生活、それらのせいとばかりも思えなかった。そんなものを追おうとする興味すら、やがてそこから漂って来る影に溺《おぼ》れ酔おうとする心に過ぎなかった。太陽の光、色彩に対する感じ――食物の味さえ年一年荒れた舌に失われて行くようであった。
頭脳《あたま》が懈くなって来ると、笹村は手も足も出なかった。そういう時には、かかりつけの按摩《あんま》に、頭顱《あたま》の砕けるほど力まかせに締めつけてもらうよりほかなかった。
「それはこっちの気のせいですよ。」
お銀は顔に出来たものを気にしながらも、医者からくれた薬すらろくろく飲まなかった。
「……逢って話してみましたらばね。」と、お銀は京橋から帰って来た時、待ちかねていた笹村に話しだした。
「そんなことなら二階があいているから、いつでも来てもいいって、そう言ってくれるんですがね。――だけど女ばかりで、そんなことをして、後で莫迦《ばか》を見るようなことでも困るから、よく考えてからにした方がいいって言うんですの。正直な人ですから、やはり心配するんでしょうよ。」
「…………。」
「その人の息子《むすこ》は新聞社へ出ているんですって。」お銀は思い出したように附け加えた。
「へえ。それは記者だろうか、職工だろうか。」
「何ですか、そう言ってましたよ。」
笹村はあまりいい気持がしなかった。
「それで、その二階はごく狭いんですの。天井も低くって厭なところなんです。お産の時にはあなたも来て下さらないと、あんなところで私心細い。」
笹村は黙っていた。お銀は張合いがなさそうに口を噤《つぐ》んだ。
正月に着るものを、お銀はその後また四ツ谷から運んで来た行李の中から引っ張り出して、時々母親と一緒に、茶の室《ま》で針を持っていた。この前に片づくまでに、少しばかりあったものも皆|亡《な》くして行李を開けて見てもちぐはぐのものばかりで心淋しかった。
気がつまって来ると、煙草の煙の籠ったなかに、筆を執っている笹村の傍へ来て、往来向きの窓を開けて外を眺めた。門々にはもう笹たけが立って、向うの酒屋では積み樽《だる》などをして景気を添えていた。兜《かぶと》をきめている労働者の姿なども、暮らしく見られた。熊谷在《くまがやざい》から嫁入って来たという、鬼のような顔をしたそこの内儀さんも、大きな腹をして、帳場へ来ては坐り込んでいた。
十九
笹村は、少し手に入った金で、手詰りのおりにお銀が余所《よそ》から借りて来てくれた金を返さしたり、質物を幾口か整理してもらったりして、残った金で蒲団皮を買いに、お銀と一緒に家を出た。「私たちのは綿が硬くて、とても駄目ですから、今度お金が入ったら、払いの方は少しぐらい延ばしても蒲団を拵えておおきなさいよ。」と、笹村はよくお銀に言われた。
「十年もあんな蒲団に包《くる》まっているなんて、痩《や》せッぽちのくせによく辛抱が出来たもんですね。」
初めて汚い笹村の寝床を延べた時のことが、また言い出された。
「僕はあまりふかふかした蒲団は気味がわるい。」
笹村は笑っていたが、それを言われるたびに、自分では気もつかずに過して来た、長いあいだ満足に足腰を伸ばしたこともない、いきなりな生活が追想《おもいだ》された。そしてやはりその蒲団になつかしみが残っていた。安机、古火鉢、それにもその時々の忘れがたい思い出が刻まれてあった。そのべとべとになった蒲団も、今はこの人たちの手に引つ剥《ぺ》がされて、襤褸屑《ぼろくず》のなかへ突っ込まれることになった。
通りまで来ると、雨がぽつりぽつり落ちて来た。何か話して歩いているうちに、ふと笹村の気が渝《かわ》って来た。
「お前は先へお帰り。」
笹村はずんずん行《ある》き出した。
「それじゃ蒲団地は買わなくてもいいの。」
女は惘《あき》れて立ってい
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