真だけ見たことのある女や、以前大阪で知っていた女などのことが、時々思い出されていたが、不意にどこからか舞い込んで来たこうした種類の女と、爛《ただ》れ合ったような心持で暮していることを、さほど悔ゆべきこととも思わなかった。
「深山がいさえしなければ、僕だってお前をうっちゃっておくんだった。」笹村は時々そんなことを言った。磯谷と女との以前の関係も、笹村の心を唆《そそ》る幻影の一つであった。そしてその時の話が出るたびに、いろいろの新しい事実が附け加えられて行った。
「……それがお前の幾歳《いくつ》の時だね。」
「私が十八で、先が二十四……。」
「それから何年間になる。」
「何年間と言ったところで、一緒にいたのは、ほんの時々ですよ。それに私はそのころまだ何にも知らなかったんですから。」
笹村はお銀がそのころ、四ツ谷の方の親類の家から持って来た写真の入った函《はこ》をひっくらかえして、そのうちからその男の撮影を見出そうとしたが、一枚もないらしかった。中にはお銀が十六、七の時分、伯母と一緒に写した写真などがあった。顎が括れて一癖ありそうな顔も体も不恰好《ぶかっこう》に肥っていた。笹村はそれを高く持ちあげて笑い出した。
母親から帰京の報知《しらせ》の葉書が来た。その葉書は、父親の手蹟《しゅせき》であるらしかった。お銀はこれまであまり故郷のことを話さなかったが、父親に対してはあまりいい感情をもっていないようであった。
「私たちも、田舎へ来いって、よくそう言ってよこしますけれど、田舎へ行けば、いずれお百姓の家へ片づかなくちゃなりませんからね。いかに困ったって、私田舎こそ厭ですよ。そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ。」
お銀は田舎へ流れ込んで行っている叔父の旧《もと》の情婦《いろおんな》のことを想い出しながら、どうかすると、檻《おり》へ入れられたような、ここの家から放たれて行きたいような心持もしていた。磯谷との間が破れて以来、お銀の心持は、ともすると頽《くず》れかかろうとしていた。笹村は荒《すさ》んだお銀の心持を、優しい愛情で慰めるような男ではなかった。お銀を妻とするについても、女をよい方へ導こうとか、自分の生涯《しょうがい》を慮《おも》うとかいうような心持は、大して持たなかった。
「私がここを出るにしても、あなたのことなど誰にも言やしませんよ。」
女は別れる前に、ある晩笹村と外で飲食いをした帰りに、暗い草原の小逕《こみち》を歩きながら言った。女は口に楊枝《ようじ》を啣《くわ》えて、両手で裾《すそ》をまくしあげていた。
「田舎へも、しばらくは居所を知らさないでおきましょうよ。」
笹村は叢《くさむら》のなかにしゃがんで、惘《あき》れたように女の様子を眺《なが》めていた。
「そんなに行き詰っているのかね。」
「だけど、もう何だか面倒くさいんですから……。」女は棄て鉢のような言い方をした。
二、三日|暴《あ》れていた笹村の頭も、その時はもう鎮《しず》まりかけていた。自分が女に向ってしていることを静かに考えて見ることも出来た。
十一
母親と顔を突き合わす前に、どうにか体の始末をしようとしていたお銀は、母親が帰って来ても、どうもならずにいた。出て行く支度までして、心細くなってまた考え直すこともあった。この新開町の入口の寺の迹《あと》だというところに、田舎の街道にでもありそうな松が、埃《ほこり》を被《かぶ》って立っていた。賑《にぎ》やかなところばかりにいたお銀は、夜その下を通るたびに、歩を迅《はや》める癖があったが、ある日暮れ方に、笹村に逐《お》い出されるようにして、そこまで来て彷徨《ぶらぶら》していたこともあった。しかしやはり帰って来ずにはいられなかった。
「失敗《しま》ったね。私|阿母《おっか》さんに来ないように一枚葉書を出しておけばよかった。」
母親が帰って来そうな朝、お銀は六畳の寝床の上に蚊帳をはずしかけたまま、ぐッたり坐り込んで思案していた。部屋の隅《すみ》には疲れたような蚊の鳴き声が聞えた。笹村もその傍に寝転んでいた。
帰って来た母親は、着替えもしずに、笹村の傍へ来て堅苦しく坐りながら挨拶をした。そして田舎の水に中《あ》てられて、病気をしたために、帰りの遅くなったいいわけなどをしながら、世のなかにただ一つの力であった一人の弟の死んで行った話などをした。
「親戚《しんせき》は田舎にたくさんござんすが、私の実家《さと》は、これでまア綺麗に死に絶えてしまったようなものだで……。」
笹村はくすぐったいような心持で、それに応答《うけこたえ》をしていた。そして母親の土産に持って来た果物の罐詰を開けて試みなどしていた。
二、三日お銀は、あまり笹村の側へ寄らないようにしていたが、いつまでもそれを続けるわけに行かなかった。
「言いましたよ私……。」
お銀はある時笑いながら笹村に話した。
「阿母さんの方でも大抵解ったんでしょう。」
笹村も待ち設けたことのような気もしたが、やはり今それを言ってしまって欲しくないようにもあった。
仕事の方は、忘れたようになっていた。笹村の頭は、甥が出直して来た時分、また蘇《よみがえ》ったようになって来た。甥はしばらくのまにめっきり大人びていた。肩揚げも卸《おろ》したり、背幅もついて来た。着いた日から、一緒に来た友達を二人も引っ張って来て、飯を食わしたり泊らせたりして田舎語《いなかことば》の高声でふざけあっていた。ちょいちょい外から訪ねて来る仲間も、その当分は多かった。
「何を言っているんだか、あの方たちの言うことはさっぱり解りませんよ。」と、お銀はその真似をして、転がって笑った。
「それにお米のまア入《い》ること。まるで御飯のない国から来た人のようなの。」
甥が日ののきに裏の井戸端で、ある日運動シャツなどを洗濯していた。その時分には、連中も落着き場所を見つけて、それぞれ散らばっていた。お銀は手拭を姉さん冠りにして、しばらく不精していた台所の棚《たな》のなかなぞを雑巾《ぞうきん》がけしていた。
「洗濯ぐらいしてやったらどうだ。」仕事に疲れたような笹村は、裏へ出て見るとお銀を詰問するように言った。
「え、だからしてあげますからって、そう言ったんですけれど。」お銀はそんなことぐらいというような顔をして笹村を見あげた。
食べ物などのことで、女のすることに表裏がありはしないかと、始終そんなことを気にしていた笹村は、その時もそれとなく厭味を言った。
「そうですかね。私そんなことはちッとも気がつきませんでした。」女は意外のように、そこへべッたり坐って額に手を当てて考え込んだ。
「そんなことをして、私何の得があるか考えてみて下さい。」お銀は息をはずませながら争った。母親もほどきものをしていた手を休めて、喙《くち》を容《い》れた。
そこへ甥と前後して、出京していた家主のK―が裏から入って来た。K―は、ほかの三軒が容易に塞《ふさ》がらないので、帰省して出て来ると、自分で尽頭《はずれ》の一軒を占めることにした。その日もお銀に冬物を行李から出させて、日に干させなどしていた。そして母親が、その世話をすることになっていた。
片耳遠いK―は、立ったまま首を傾《かし》げて二人の顔を見比べていた。
十二
K―は、郷里では名門の子息《むすこ》で、稚《おさな》い時分、笹村も学校帰りに、その広い邸へ遊びに行ったことなどが、朧《おぼろ》げに記憶に残っていた。その後久しくかけ離れていたが、ある夏熊本の高等中学から、郷里の高等中学へ戻って来たK―のでくでくした、貴公子風の姿を、学校の廊下に認めてから間もなく、笹村は学校を罷《や》めてしまった。偶然にここで一つ鍋《なべ》の飯を食うことになっても、双方話が合うというほどではなかった。
笹村は友人思いの京都のT―から、自分ら二人のその後の動静を探るようにK―へ言ってよこしたので、それでK―が貸家監理かたがたここへ来ることになった……とそうも考えたが、K―自身は、そのことについて一言も言い出さなかった。
「どうだい、男の機嫌をとるのはなかなか骨が折れるだろう。」K―は、二人の中へ割り込むように火鉢の傍へ来て坐り込んだ。
それでその話は腰を折られて、笹村も笑って、奥へ引っ込んで行った。
夜笹村は、かんかんしたランプに向って、そのころ書き始めていた作物の一つに頭を集中しようとしていた。機械鍛冶の響きはもう罷んで、向うの酒屋でも店を閉めてしまった。この町のずッと奥の方に、近ごろ出来た石鹸《せっけん》工場の職工らしい酔漢《よっぱらい》が、呂律《ろれつ》の怪しい咽喉《のど》で、唄《うた》を謳《うた》って通った。空車を挽《ひ》いて帰る懈《だる》い音などもした。
K―は、茶の室《ま》でお銀たちを相手に、ちびちびいつまでも酒を飲み続けていた。しんみりしたような話し声が時々聞えるかと思うと、お銀の笑い声などが漏《も》れて来た。甥は真中の六畳の隅の方で、もう深い眠りに沈んでいた。
夜になると、はっきりして来る笹村の頭は、痛いほど興奮していた。筆を執るには、目がちかちかし過ぎるほど、神経が冴《さ》えていた。
「酒というものは陽気でようござんすね。」客商売の家にいたりしたことのあるお銀が、先刻《さっき》酒好きなK―に媚《こ》びるように言ったことなどが想い出された。
そういうお銀は、笹村の客が帰ったあとで、麦酒《ビール》などの残りをコップに注《つ》いで時々飲んでいた。酒が顔へ出て来ると、締りのない膝を少し崩しかけて、猥《みだ》らなような充血した目をして人を見た。齲歯《むしば》の見える口元も弛《ゆる》んで、浮いた調子の駄洒落などを言って独りで笑いこけていた。お銀の体には、酒を飲むと気の浮いて来る父親の血が流れているらしかった。
「女の酒は厭味でいけない。」
時々顔を顰《しか》める笹村も、飲むとどこか色ッぽくなる女を酔わすために、自分でわざと飲みはじめることもあった。
外が鎮まると、奥の話し声が一層耳について来た。女が台所へ出て、酒の下物《さかな》を拵えている気勢《けはい》もした。
厠《かわや》へ立つとき、笹村は苦笑しながらそこを通った。女はうつむいて、畳鰯《たたみいわし》を炙《あぶ》っていたが、白い顔には酒の気があるようにも見えなかった。
「K―さんにお自惚《のろけ》を聴かされているところなんですの。どうしてお安くないんですよ。」お銀は沈んだような調子で言った。
痛い頭を萎《な》やそうとして、笹村は机を離れてふと外へ出て見た。そして裏の空地を彷徨《ぶらぶら》して、また明るい部屋へ戻って見た。K―はまだちびりちびり飲み続けていた。そのうちに女は裏の木戸を開けて、ざくざくした石炭殻の路次口から駒下駄《こまげた》の音をさせて外へ出て行った。向うの酒屋へ酒を買いに行くらしかった。
「おい、少し静かにしないか。」
大分たってから、たまりかねたように、笹村が奥へ大声で叫んだ。
茶の室《ま》はひっそりしてしまった。
十三
「そんなにお耳に障《さわ》ったんですか。だってK―さんがせっかくお酒を召し食《あが》っていらっしゃるのに、厭な顔も出来ないもんですから。」
心持のゆったりしたようなK―が、間もなく黙って帰って行ってから、お銀は何気なげに遠くの方で言った。後で気のついたことだが、ちびりちびり酒を飲みながら、自惚《のろけ》まじりのK―の話のうちには、女を友達から引き離そうとするような意味も含まれてあった。それが今の場合K―自身として、笹村を救う道だと考えていたらしかった。以前下宿をしていた家の軍人の未亡人だという女主《おんなあるじ》と出来合っていたK―は、ほかにも干繋《かんけい》の女が一人二人あった。その晩もK―は、子まで出来た間《なか》を別れてしまった女のことを虚実取り混ぜて話していた。同じような心の痛みのまだどこかに残っている女は、しみじみした淡い妬《ねた》みの絡《まつ》わりついたような心持でそれに聴き惚《ほ》れてい
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