足の支《つか》える蚊帳のなかに起きあがって、唸《うな》るように呟《つぶや》いた。
笹村は、六畳の方で、窓を明け払って寝ていた。窓からは、すやすやした夜風が流れ込んで、軽い綿蚊帳が、隣の廂間《ひさしあい》から差す空の薄明りに戦《そよ》いでいた。
ばたばたと団扇《うちわ》を使いながら、いつまでも寝つかれずにいるお銀の淡白《うすしろ》い顔や手が、暗いなかに動いて見えた。
七
「……厭なもんですよ。終《しま》いに別れられなくなりますから。」
お銀はある晩、六畳へ蚊帳を吊《つ》っていながら真面目にそう言った。
互いに顔を突き合わすのを避けるようにして過ぎた日のことを、振り顧って話し合うように二人は接近して来た。
お銀は机の傍《そば》へ来て、お鈴に褫《うば》われた男のことを、ぽつぽつ話し出した。
「どんな男です。」笹村もそれを聞きたがった。
お銀は括《くく》られているようなその顎《あご》を突き出して、秩序もなく前後のことを話した。
「晩方になると、私家を脱《ぬ》け出して、お鈴の部屋借りをしていた家の前へ立っていたんですよ。すると二人の声がするもんですから、いつまでもじっと聴いているんでしょう。私|莫迦《ばか》だったんですね。自分から騒いで、かえっていけなくしたようなもんですの。」
お銀はそれから、親類の若い男と一緒にそこへ捻《ね》じ込んで行ったことなどを話した。
「男も莫迦なんですよ。それから私の片づいている先へ、ちょいちょい手紙をよこしたり、訪《たず》ねて来たりするんです。そこはちょっとした料理屋だったもんですから、お客のような風をして上って来るんでしょう。洋服なんぞ着込んで、伯父さんの金鎖など垂《ぶら》さげて……私帳場にいて、ふっとその顔を見ると、もう胸が一杯になって……。」お銀は目のあたりを紅《あか》くしながら笑い出した。
「それで大変悪いことをした。お蔭で今度は学校の試験を失敗《しくじ》ったなんて……それもいいんですけれど、どうでしょう飲食いした勘定が足りないんでしょう。磯谷はそれア変な男なんです。まるで芝居のようなんです。」
お銀は黒い壁にくっついている蚊を、ぴたぴた叩《たた》きはじめた。
「よくあなたは、こんな蚊が気にならないんですね。」
「僕は蚊帳なしに、夏を送ったことがあるからね。」笹村は頭の萎《な》えたような時に呑む鉄剤をやった後なので、脂《あぶら》のにじみ出たような顔に血の色が出ていた。ランプの灯に、目がちかちかするくらい頭も興奮していた。
お銀は笹村の蒲団の汚いことを言い出して笑った。
「初めての蒲団を敷いたとき、びっくりしましたよ。食べ物やほかのことはそんなでもないのに、一体どうしたんでしょうと思って……敷いてから何だか悪いような気がして、また押入れへしまい込んだり何かして。」
「その家はどういう家なんだ。」笹村はまた訊《き》いた。
「そこの家ですか。それがまた大変に込み入った家なんです。阿母《おっか》さんというのが、継母で、もと品川に芸者をしていたとか言うんですがね、栄というその子息《むすこ》と折合いがつかなくて、私の行った時分には、余所《よそ》へ出ておったんですがね、それをお爺さんが入れるとか入れないとか言って、始終ごたごたしていたましたっけがね。子息も面白くないもんですから、やはりお金を使ったり何かするんですね。栄はちょっとした男でしたけれどね、私初めから何だか厭で厭で、いる気はしてなかったんです。」
逃げて来てからも、その男に附き纏《まと》われたことなどを附け加えて話した。
「それに、ずうずうしい奴《やつ》なんです。」お銀は火照《ほて》ったような顔をして、そこへ片づいた晩のことを話した。
「深山は、お前がまた磯谷と一緒になるんだろうなんて言っていた。」
「いいえ、そうは行きません。」お銀は笑いながら言った。
「その方は、もうすっかり駄目なんです。」
八
時々大徳寺などに立て籠《こも》っていたことのあるT―が、ぶらりと京都に立って行ってからは、深山と笹村との間の以前からのこだわりが、お銀のことなどで一層妙になって来たので、深山は余所にいた出戻りの妹などと、世帯道具を買い込んで、別に食事をすることになった。笹村よりかむしろ一歩先に作を公にしたことなどもあり、自負心の高い深山が、一《い》ッ端《ぱし》働き出そうとしている様子がありあり笹村の目に見えた。いろいろの人がそこに集まっている様子なども、笹村の神経に触れた。
女同士のことで、深山の妹とお銀とは、裏で互いに往来《ゆきき》していた。妹が茶の室《ま》へ来て、お銀や磯谷のことでも話しているらしいこともあったし、お銀から髢《かもじ》を借りて行ったり、洋傘《かさ》を借りて行くようなこともあった。懇意ずくで新漬けを提げ出すこともあった。
「うるさいな。」笹村はぷりぷりした。
「お前はまたどうして深山のところへなぞ行くんだ。」ときめつけると、お銀は笑って黙っていた。
それでなくとも、心持のよく激変する笹村は、ふっとお銀の気もつかずに言ったことが、癪《しゃく》に触って怒り出した。
「帰ってくれ。お前に用はない。」
女は上眼遣いに人の顔をじろじろ見ながら、低い腰窓の下に体を崩して、じッとしていた。そこへ腰かけている笹村は、膝で女を小突いた。
「あなた私を足蹴《あしげ》にしましたね。」お銀は険しいような目色をした。
そういう女の太《ふ》てたような言い草が、笹村の心をいよいよ荒立たしめた。女は顔の汗を拭きながら、台所へ立って行った。伯父が失敗してから愚かな母親と弱い弟を扶《たす》けて今日までやって来たお銀は、そんなことを自然に見覚えて来た。そうしなければ生きられないような場合も多かった。
静かな夏の真昼の空気に、機械鍛冶で廻す運転器の音が、苦しい眠りから覚めた笹村の頭に重く響いて来た。家のなかを見廻すと誰もいなかった。台所には、青い枝豆の束が、差し込んで来る日に炙《あぶ》られたまま、竈《かまど》の傍においてあった。風が裏手の広い笹原をざわざわと吹き渡っている。笹村は物を探るような目容《めつき》で、深山の家へ入っていった。
六畳の窓のところに坐っている深山はいつもの通り、大きい体をきちんと机の前に坐ってうつむいていた。お銀が一畳ばかり離れて、玄関の閾際《しきいぎわ》に、足を崩して坐っていた。意味を読もうとするような笹村の目が、ちろりと女の顔に落ちた。
「家を開けちゃ困るじゃないか。」笹村は独り語《ごと》のように言って、すぐに出て行った。お銀も間もなくそこを起《た》って来た。
「何も言ってやしませんわ。お鈴さんのことで話していたんですわ。」
お銀は深山が同情しているお鈴との一件のことで、自分が深山に悪く思われるのも厭であった。笹村はとにかく、お鈴を通して自分の以前のことを知っているはずの深山に、そう変な顔も出来ないというような心持もあった。機嫌《きげん》の取りにくい笹村の性質についても、深山の話に道理があるとも考えた。
「ほんとうにひどいことをしますよ。」
お銀は晩に通りまで散歩に行った時、伴《つれ》の妹に話しかけた。
「私の手紫色……。」お銀は誇大にそうも言った。帰りに家の前で、「遊びにお出でなさいな。もし兄さんがいなかったら。」と、妹が声かけて別れて行くのを、笹村は暗い窓口から聞いていた。
怜悧《れいり》な深山が、いつかお銀の相談相手になっているように思えた。
九
笹村との間隔《へだたり》が、だんだん遠くなってから深山は遠くへ越して行った。そのころは一時潤うていた深山の生活状態がまた寂しくなっていたので、家主のK―へやるべきものも一時そのまま残して行くことになった。後から笹村のところへ掛合いに来る商人も一人二人あった。
「お鈴さんから聞いてはいたけれど、随分めずらしい人ですね。」と、お銀が言っていたが、笹村も初めのように推奨する代りに、すべてを悪い方へ解釈したかった。深山に連絡している周囲が、女のことについて、いろいろに自分を批評し合っているその声が始終耳に蔽《お》っ被《かぶ》さっているようで、暗い影が頭に絡《まつ》わりついていた。
「あなたのやり方が拙《まず》いんですもの、深山さんと間《なか》たがいなどしなくたってよかったのに……。」と、女は笹村の一刻なのに飽き足りなかった。
「いっそいさぎよく結婚しようか。」
お銀は支度のことを、なにかと言い出した。笹村もノートに一々書きつけて、費用などの計算までして見た。
「叔父さんが丈夫で東京にいるとよかったんですがね。小説なんか好きでよく読んでましたがね。……遊んでいる時分は、随分乱暴でしたけれど、病気になってからは、気が弱くなって、好きな小清《こせい》の御殿なぞ聞いて、ほろりとしていましたっけ。」
「東京で多少成功すると、誰でもきっと踏み込む径路さ。」
「それでも、自分はまだ盛り返すつもりでいますよ。今ごろは死んだかも知れませんわ。途中で宿屋へ担《かつ》ぎ込まれたくらいですもの。」お銀は叔父の死よりも、亡《な》くした自分の着物が惜しまれた。
「私横浜の叔母のところへ行けば、少しは相談に乗ってくれますよ。」お銀は燥《はしゃ》いだような調子で、披露《ひろう》のことなどをいろいろに考えていた。
笹村は、旅行中羽織など新調して、湯治場へ貽《おく》ってくれた大阪の嫂に土産《みやげ》にするつもりで、九州にいるその嫂の叔母から譲り受けて来て、そのまま鞄《かばん》の底に潜《ひそ》めて来た珊瑚珠《さんごじゅ》の入ったサックを、机の抽斗《ひきだし》から出してお銀にやった。
「どうしてあなたがこんな物を持っているんです。」お銀は珠をひねくりながら、不思議そうに笑い出した。
「ただ安いから買っておかないかと、叔母さんから勧められたから……。」
「でも誰か、的《あて》がなくちゃ……おかしいわ。いくらに買ったのこれを……私|簪屋《かんざしや》で踏まして見るわ。」
結婚するとなると、笹村はまたさまざまのことが考え出された。
「僕に世話すると言っていた人は一体どうなったんだ。」笹村は笑いながら言った。
「いい女ですがね。」お銀は窓の外を瞶《みつ》めながら薄笑いをしていた。
暗くなると、二人は別々に家を出て行った。そして明るい店屋のある通りを避けて、裏を行き行きした。暗い雲の垂《た》れ下った雨催《あまもよ》いの宵《よい》であった。片側町の寂しい広場を歩いていると、歩行《あるき》べたのお銀は、蹌《よろ》けそうになっては、わざとらしい声を立てて笹村の手に掴《つか》まった。笹村の小さい冷たい手には、大きい女の手が生温かかった。
寄席《よせ》の二階で、電気に照されている女の顔には、けばけばしいほど白粉《おしろい》が塗られてあった。唇《くちびる》には青く紅も光っていた。笹村の目には暗い影が閃《ひらめ》いた。
「そんな……。」女はうつむいて顔を赧《あか》くした。
お銀の話でここへ磯谷とよく一緒に来たということが、笹村の目にも甘い追憶のように浮んだ。
「ちょッとああいったようなね、頚《くび》つきでしたの。」女は下の人込みの中から、形《なり》のいい五分刈り頭を見つけ出して、目をしおしおさせた。笹村もこそばゆいような体を前へ乗り出して見下した。
十
母親が果物の罐詰などを持って、田舎から帰って来てからも、お銀は始終笹村の部屋へばかり入り込んでいた。笹村は女が自分を愛しているとも思わなかったし、自分も女に愛情があるとも思い得なかったが、身の周《まわ》りの用事で女のしてくれることは、痒《かゆ》いところへ手の届くようであった。男の時々の心持は鋭敏に嗅《か》ぎつけることも出来た。気象もきびきびした方で、不断調子のよい時は、よく駄洒落《だじゃれ》などを言って人を笑わせた。緊《しま》りのない肉づきのいい体、輪廓《りんかく》の素直さと品位とを闕《か》いている、どこか崩れたような顔にも、心を惹《ひ》きつけられるようなところがあった。笹村の頭には、結婚するつもりで近ごろ先方の写
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