かって、パイレートを舌の痛くなるほど続けて吸った。
 衆《みんな》は食べ飽きて気懈《けだる》くなったような体を、窓の方へ持って行って、夕方の涼しい風に当った。
 やがてお銀が、そこらに散らかったものを引き取って行った。
 お銀が初めてここへ来たのは、ついこのごろであった。ある日の午後、どこかの帰りに、笹村が硝子《ガラス》製の菓子器やコップのようなものを買って、袂《たもと》へ入れて帰って来ると、茶の室《ま》の長火鉢のところに、素人《しろうと》とも茶屋女ともつかぬ若い女と、細面の痩《や》せ形《がた》の、どこか小僧気《こぞうけ》のとれぬ商人風の少《わか》い男とが、ならんでいた。揉上《もみあ》げの心持ち長い女の顔はぽきぽきしていた。銀杏返《いちょうがえ》しの頭髪《あたま》に、白い櫛《くし》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、176−下−2]《さ》して、黒繻子《くろじゅす》の帯をしめていたが、笹村のそこへ突っ立った姿を見ると、笑顔《えがお》で少し前《すす》み出て叮寧に両手を支《つ》いた。
「……母がお世話さまになりまして。」

     四

 近所で表へ水を撒《ま》く時分に、二人は挨拶《あいさつ》をして帰って行った。
「ちょッといい女じゃないか。」
 笹村が四畳半の方で、その時まだ一緒にいた深山に話しかけると、深山は、「むむ。」と口のうちで言った。
「あの男は。」
「あれは情夫《いろ》さ。」深山はとぼけてそう言った。
「そうかね。」
 飯のとき笹村は笑いながら婆さんに、「お婆さん、いい子供がありますね。」と言うと、婆さんは、「ええ。」と言って嬉《うれ》しそうににっこりした。
 それから娘だけ二、三度も来た。
「あれも縁づいておりましたったけれど、ちっと都合があってそこを逃げて来とりますもんで、閑《ひま》だから、つい……。」
 婆さんは娘が帰って行くと、そう言っていた。
 娘は時々バケツを提げて、母親に水など汲《く》んで来てやった。台所をきちんと片づけて行くこともあった。娘が拵えてくれた小鯵《こあじ》の煮びたしは誰の口にもうまかった。
「これアうまい。お婆さんよりよほど手際がいい。」笹村は台所の方へ言いかけた。
「これは焼いて煮たんだね。」
「私は何だか一向不調法ですが……娘の方はいくらか優《まし》でござんす。」
 母親はそこへ来て愛想笑いをしたが娘はあまり顔出しをしなかった。
 使いあるきの出来ない母親の代りに、安くて新しい野菜物を、通りからうんと買い込んで来た娘が、傘《かさ》をさして木戸口から入る姿が、四畳半に坐っている笹村の目にも入った。
 見なれると、この女の窄《つぼ》まった額の出ていることなどが目についた。
 この女が、深山の若い叔父《おじ》の細君と友達であったことがじきに解って来た。この女が一緒になるはずであった田舎のある肥料問屋の子息《むすこ》であった書生を、その叔父の妻君であった年増《としま》の女が、横間《よこあい》から褫《うば》って行ったのだというようなことも、解って来た。
「あの女のことなら、僕も聞いて知っている。」と、深山はこの女のことをあまりよくも言わなかった。
「深山さんのことなら、私もお鈴さんから聞いて知ってますよ。」女も笹村からその話の出たとき、思い当ったように言い出した。
「へえ、深山さんというのは、あの方ですか。あの方の家輪《うちわ》のことならお鈴さんから、もうたびたび聞かされましたよ。」
 母親も閾際《しきいぎわ》のところに坐って、そのころのことを少しずつ話しはじめた。
「それでお鈴という女は、あんたのその男と一緒ですかね。」笹村は壁に倚りかかりながら、立てた両脛《りょうすね》を両手で抱えていた。
「いいえ、それはもうすぐ別れました。そんな一人を守っているような女じゃないんです。深山さんの叔父さんという方も、私よく存じております。この方もじきに後が出来たでしょう。」
 娘は低い鼻頭《はながしら》のところを、おりおり手で掩《おお》うようにして、二十二にしては大人びたような口の利き方をした。
「随分面白いお話なんです。」
 笹村はそんな話に大した興味を持たなかった。相手もそのことは深く話したそうにもなかった。
「ほんとに不思議ですね。」娘は少し膝《ひざ》を崩《くず》して、うつむいていた。

     五

 幼年学校とかの試験を受けに来た甥が、脚気《かっけ》の気味で、一時国へ帰る前に、婆さんはその弟の臨終を見届けに、田舎へ帰らなければならなかった。
 その弟が、いろいろの失敗に続いて、いたましい肺病に罹《かか》り、一年ほど前から田舎へ引っ込んでいたことを、婆さんは立つ前に笹村に話した。
「私が帰って来るまで、娘をおいて行ってもようござんすが、若いもののことだでどうでござんすか。それさえ御承知なら、娘も当分親類の家にぶらぶらしておりますもんだで……。」と、婆さんは立つ前に、重苦しい調子でこんな話を切り出した。
 お銀がそのころ、夕方になると、派手な浴衣《ゆかた》などを着て、こってり顔を塗っているのを、笹村は見て見ぬ振りをしていた。
「困るね、あんな風をされるようでは。君からよく言ってくれたまえ。近所でも変に思うから。」笹村は蔭で深山にそのことを話した。それでもこの女の時々|助《す》けに来るということは、そんなに厭わしいことでもなかった。お銀が来るようになってから、一々自身で台所へ出て肴の選択をする必要もなくなったし、三度三度のお菜《かず》も材料が豊かになった。これまでに味わったことのない新漬《しんづ》けや、かなり複雑な味の煮物などがいつも餉台《ちゃぶだい》のうえに絶えなかった。長いあいだ情味に渇《かわ》いた生活を続けて来た笹村には、それがその日その日の色彩《いろどり》でもあった。
「それでは娘はお預けして行きますで……。」と、婆さんは無口で陰気な笹村なら、安心して娘をおいて行けるといった口吻《くちぶり》であった。
 家はじきに甥とお銀と三人の暮しになった。お銀は用がすむと、晩方からおりおり湯島の親類の方へ遊びに行った。そして夜更けて帰ることもあった。笹村が、書斎で本など読んでいると、甥と二人で、茶の間で夏蜜柑《なつみかん》など剥《む》いていることもあった。
「真実《ほんとう》に新ちゃんはいい男ですね。」お銀は甥の留守の時笹村に話しかけた。甥は笹村の異腹《はらちがい》の姉の子であった。
「叔父甥と言っても、ちっともお話なんぞなさいませんね。見ていてもあっけないようですね。その癖新ちゃんは、私にはいろいろのことを話します。来るとき汽車のなかで綺麗な女学生が、菓子や夏蜜柑を買ってくれたなんて……。」
「そうかね。」笹村は苦笑していた。
 甥に脚気の出たとき、笹村はお銀にいいつけて、小豆《あずき》などを煮させ、医者の薬も飲ませたが、脚がだんだん脹《むく》むばかりであった。
「医者が転地した方がいいと言うんですよ。大分苦しそうですよ。それで、叔父さんに旅費を貰《もら》ってくれないかって、私にそう言うんですがね。田舎へ帰してお上げなすったらどうです。」
 間もなく笹村は甥を帰国の途につかせた。通りまで一緒に送って行って、鳥打の代りに麦藁《むぎわら》を買って被《かぶ》せたり、足袋に麻裏草履などもはかせた。
「どうも贅沢《ぜいたく》を言って困った。」
 笹村は帰って来ると、台所を片着けているお銀に話しかけた。
「安いもので押し着けようとしたって、なかなか承知しない。」
 甥のいなくなった家を見廻すと、そこらがせいせいするほど綺麗に拭《ふ》き掃除がされてあった。裏の物干しには、笹村が押入れに束《つく》ねておいた夏襯衣《なつシャツ》や半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83、179−下−15]《ハンケチ》、寝衣《ねまき》などが、片端から洗われて、風のない静かな朝の日光に曝《さら》されていた。
「どうもそう何でも彼《かん》でも引っ張り出されちゃ困るね。」
 笹村は水口で渇いた口を嗽《すす》ぎながら言った。
「そうですか。」
 女は鬢《びん》の紊《ほつ》れ毛を掻《か》き揚げながら振り顧った。
「でも私、疳性《かんしょう》ですから。」

     六

 笹村は机の前に飽きると、莨《たばこ》を袂へ入れて、深山の方へよく話しに行った。T―は前の方の四畳半に、旅行持ちの敷物を敷いて、そこに寝転《ねころ》んでいた。T―は長いあいだ無駄に月謝を納めている大学の方をいよいよ罷《や》めて、好きな絵の研究を公然やり出そうかというようなことを、毎日考え込んでいた。父兄の財産によらずに、どうかして洋行するだけの金の儲《もう》けようはないものかなどと思い続けていた。島へ行ってから聖書などに親しみ、政治や戦争などを厭がるようになっていた。思想の毛色も以前より大分変っていた。
「僕は今小説を一つ書きかけているところなんだ。」と、鼻の高い、骨張った顔の相を崩しながら横に半身を起して、くうくう笑った。
 机のうえには、半紙に何やら書きかけたものがあった。T―の頭には、小笠原島で見た漁夫や、漂流の西班牙《スペイン》人や、多勢の雑種《あいのこ》について、小説にして見たいと思うようなものがたくさんあった。笹村のガラクタの中から拾い出して行った「海の労働者」の古本などが側にあった。
 二人はこのごろT―のところへ届いた枝ごとのバナナを手断《ちぎ》りながら、いろいろの話に耽った。薄暗い六畳から台所の横の二畳の方を透《すか》してみると、そこに深山が莨の煙のなかに、これも原稿紙に向っている。傍にパインナップルの罐《かん》や、びしょびしょ茶の零《こぼ》れている新聞紙などが散らかっていた。そして蟻《あり》が気味わるくそこらまで這《は》い上っていた。
「あの女が島田などに結うのは目障《めざわ》りだね。」笹村はこれまでよく深山に女の苦情を言った。夜家を明けて、女が朝|夙《はや》く木戸をこじ明けて入って来ることも、笹村の気にくわなかった。お銀は時々湯島の親類の家で、つい花を引きながら夜更《よふか》しをすることがあった。
「近所へ体裁が悪いから、朝木戸をこじあけて入って来るなどはいけないよ。」
 笹村は一度女にもじかに言い聞かしたが、負けず嫌いのお銀はあまりいい返辞をしなかった。
「肴屋などは、あれを細君が来たのだと思っていやがる。女がそんな態度をするだろうか。」
「やはり若い女なぞはいけないんだ。」深山は女のことについて、あまり口を利かなかった。
 T―は傍で、くすりくすり笑っていた。
 笹村が裏から帰って来ると、お銀は二畳の茶の間で、不乱次《ふしだら》な姿で、べッたり畳に粘り着いて眠っていた。障子には三時ごろの明るい日が差して、お銀の顔は上気しているように見えた。と、跫音《あしおと》に目がさめて、にっこりともしないで、起きあがって足を崩したまま坐った。それを、ちらりと見た笹村の目には、世に棄《す》て腐れている女のようにも思えた。笹村は黙ってその側を通って行った。
 二、三日降り続いた雨があがると、蚊が一時にむれて来た。それでなくともお銀は暑くて眠られないような晩が多かった。そして蚊帳《かや》が一張《ひとはり》しかなかったので、夜おそくまで、蝋燭《ろうそく》の火で壁や襖《ふすま》の蚊を焼き焼きしていた。そんなことをして、夜を明かすこともあった。
「私も四ツ谷の方から取って来れば二タ張《はり》もあるんですがね。」
 お銀は肉づいた足にべたつくような蚊を、平手で敲《たた》きながら、寝衣姿《ねまきすがた》で蒲団のうえにいつまでも起き上っていた。
 翌日笹村は独り寝の小さい蚊帳を通りで買って、新聞紙に包んで抱えて帰った。そしてそれをお銀に渡した。
「こんな小さい蚊帳ですか。」お銀は拡げてみてげらげら笑い出した。そして鼠《ねずみ》の暴れる台所の方を避けて、それをわざと玄関の方へ釣《つ》った。土間から通しに障子を開けておくと、茶の間よりかそこの方が多少涼しくもあった。
「こんなに狭くちゃ、ほんとに寝苦しくて……。」大柄な浴衣を着たお銀は、手
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