のさ。」と笑っていた。
「それよりか磯谷の手紙くらい残っていそうなものだね。それをお見せ。」笹村はそう言って尋ねた。
「小石川の家にいる時分、みんな焼いてしまいましたわ。」
「へえ、惜しいことをしたねえ。」笹村は残念がった。
 またある時、学校出の友達の夫人から、ある女学生が相愛していた男をふとしたことから母親の目に触れてから、一人娘であったわが子のために、父親はその男を養子に取り決めることになった。けれど男の心は、そんなことがあってから、じきに他の女に移って行った――そんな話を聞いた笹村は、お銀にもそれを語った。
「手紙を背負《しょ》い揚《あ》げに入れておくなんて、そんなことがあるのか。」
「え、そうでしょう。私もそうでした。」お銀はその時の娘らしい心持を追想するような目をして、呟くように言った。その手紙を焼いたころのお銀は、まだ赤いものなどを体に着けていた。
「なぜそれを己に見せなかった。」笹村はその時もそれをくやしがった。
 笹村の側《がわ》に、そんなことのないのが、お銀にとって心淋しかったが、それでもそのころ温泉場《ゆば》にいたある女から来た手紙や、大阪で少《わか》い時分の笹村が、淡いプラトニック・ラヴに陥ちていた女の手紙は、そんなことを誇張したがるお銀のためには、得がたい材料であった。
 二人寄席に行っているとき、向う側の二階に友達と一緒に来ている磯谷の顔を、お銀はじきに見つけた。そして前に坐っている人の陰に体をすくめながら、時々肩越しにそっちを見ていた。
「あれ磯谷の友達だった人ですよ。」
 お銀はそう言って笹村に教えたが、その傍に磯谷のいたことは、笹村も帰ってからはじめて聞かされた。
「莫迦《ばか》にしているな。向うは己を気づいたろう。己こそいい面《つら》の皮だ。」
 笹村はなぜその周囲の顔を、一々記憶に留めなかったかをくやしがった。
「気がつくもんですか。私のいることすら知らなかったでしょう。それに私も、あの時分から見るとずッと変っていますもの。口でも利けば知らず途中でちょッと逢ったくらいじゃ、とても解りっこはありませんよ。」
「だけど、お前の目が始終|先方《むこう》を捜していると同じに、先方の目だってお前を見遁《みのが》すもんか。」
「そんなことは真実《ほんとう》にありませんよ。」

     七十五

 けれど笹村の口にする磯谷という名前が、妻に対する軽侮と冷笑よりほか、何の意味をも響きをも与えない時の来たのは、そんなに長い将来のことでもなかった。お銀がそれを言い出されても、何の痛みをも感じないと同じに、笹村の方でも男が真の意味において自分のマッチでないことや、女が自分に値しないことのだんだんはっきりして来るのが、心淋しかった。
「電車通りのところで、阿母さんが余所《よそ》の人と話していたよ。」
 ある時歯の療治に行くお銀に連れられて行った正一は、ふと笹村の傍へ来てそう言って言い告げた。お銀は産をするたびに、歯を破《こわ》されていた。目も時々|霞《かす》むようなことがあった。二度目の産をしてからは、一層歯が衰えていた。
「大変な歯ですね。よく今まで我慢していましたね。」と医師《いしゃ》に言われてきまりがわるいくらいであった。
 お銀は痛みでもすると、その時々に弄《いじ》ってもらったりしていたが、続いて通うこともできずにいた。
「今の若さで、そう歯が悪くなるというのはどういうものだろう。」
 先の家にいるとき、雨のなかを井戸へ水を汲みに行って、坂で子供を負《おぶ》ったまま転んで、怪我《けが》で前歯を二本かいたほかは、歯を患《や》んだことのない老人《としより》に、そう言って笑われた。
「田舎の人と違いますよ。」
 物を食べるころになると、子供も同じように齲歯《むしば》に悩まされた。笹村はそこにも、自分の体を年々侵しているらしい悪い血を見た。
「今度こそ、少し詰めて通ってもよござんすか。」お銀はそう言って、正一の手をひきながら医師へ通った。四月ごろの厭な陽気で、お銀はどうかすると、歯と一緒に堪えがたい頭の痛みを覚えた。そしてせっかく結んだ髪を、また釈《と》いたりなどして、氷で冷やしていた。
「どうしたんでしょう。私の脳はもう腐ってしまうんでしょうか。何ともいえない厭な痛み方なんですがね。それに、体も何だか輪がかかったようになって……。」
 まだまだ先へ行けばよいこともある、そう思い思い苦しい世帯のなかを、意地を突ッ張って来たお銀も、体の衰えとともにもう三十に間もないことが、時々考えられた。
「己もいつまで働けるもんか。そのうちには葬られる。」
 時々そう言って淋しく笑っている笹村の顔を見ると、何だか情ないような気のすることもたびたびあった。
「お前も先の知れた己などの家にいて苦労してるよりか、今のうちにどうかしたらいいだろう。工面のよい商人か、請負師とでも一緒になって、姐《あねえ》とか何とか言われて、陽気に日を送っていた方が、どのくらい気が利いてるか知れやしない。箱屋をしたって、立派に色男の一人ぐらい養って行けるぜ。その代り、子供は己が、お前の後日の力になるように仕立てておいてやる。そしてお前の入用な時いつでも渡してやる。子供がお前の言うことを聴くか、どうか、それは己にも解らんがね。」
 笹村のそう言うたびに、お銀は聴かない振りをしていた。
 子供が電車通りで逢ったという男のことを、笹村はちょいと考えがつかなかった。
「どんな人……。」と言って、知っている人の名を挙げてみたが、やっぱり解らなかった。
「その人がね、お父さんのことを言っていたよ。」
 子供はうつむきながら言った。
 その男が磯谷であったことが、じきお銀の話で知れた。
「まるで本郷座のようでしたよ。私ほんとうに悪かった。これから妹と思って何かのおりには力になるからなんて、そう言って……。」と、お銀はその時の様子を笑いながら話した。

     七十六

 夏の初めに、何や彼やこだわりの多い家から逃れ、ある静かな田舎の町の旅籠屋《はたごや》の一室に閉じ籠った時の笹村の心持は、以前友達から頼まれた仕事を持って、そこへ来た時とはまるで変っていた。
 その町は、日光へも近く、塩原へもわずか五時間たらずで行けるような場所であったが、町それ自身には、旅客の足を留める何物もなかった。家を飛び出した時の笹村は、そこの退屈さを考えている遑《いとま》もないほど混乱しきっていた。それに適当な場所へ行くような用意ももとよりなかった。笹村は何かなし家と人から逃れて、そんなに東京からの旅客に慣らされていないような土地へ落ち着いて、静かに何かを考え窮めて見たかった。
 その前から、笹村はどうかすると家を飛び出しそうにしては、お銀や老人《としより》に支えられてしまった。春から夏へかけての笹村の感情は、これまでにも例のないほど荒《すさ》んでいた。自分の健康や世帯の苦労と、持っていた家をまた畳まなければならなかった弟や、そこへ行っていた母親についての心配とで、毎日溜息ばかり吐《つ》いているようなお銀の顔を見るのも苦しかったが、そうした波動の始終自分の頭に響いて来るのも厭であった。何事も隠そうとしているお銀の調子は、二人を一層打ち釈《と》けることの出来ないものにしてしまった。
 何ということなしに、笹村がちょいちょい通っていた女のことが、時々お銀の頭をいらいらさせた。体が悪いので、しばらく駿河台《するがだい》の方の下宿へ出ていたその女とは、年にも大変な懸隔《へだたり》があったし、集まって来る若い男も二、三人はあったが、土竜《もぐらもち》のような暗い生活をしている女の堕落的気分が、ただ時々の興味を惹《ひ》いていた。
 笹村は、家が重苦しくなって来ると、莨銭《たばこせん》を袂《たもと》の底にちゃらつかせながら、折にふれて行きどころのない足をそっちへ向けた。そしてその部屋の壁際に寝そべって、女からいろいろの話を聞いた。
 女の机のうえには薬瓶などがあった。女はしおしおしたような目をして、派手な牡丹《ぼたん》の置型のある浴衣《ゆかた》のうえに、矢絣《やがすり》の糸織りの書生羽織などを引っかけて、頽《くず》れた姿形《なりかたち》をして自分がそこへ陥ちて行った径路や、初恋などを話した。笹村は、頭が疲れて来ると、座蒲団のうえに丸くなって、毛布を被って、うとうとといい心持にまどろみかけていた。そして眠ったかと思うと、そこへ茶呑《ちゃの》み咄《ばなし》に来ている宿の内儀《かみ》さんと女との話し声が耳に入った。
 女のところへは、ほかにもそういう友達が一人二人遊びに来た。そのなかには、男に仕送りをされて、学校へ通っているような身のうえのものもあった。
 下宿には客が少かった。そして障子を閉めきって、そこに寝たり起きたりして、女の弁《しゃべ》ったりしたりすることを見ていると、暗いその部屋を起つのが億劫なほど、心も体も一種の慵《ものう》い安易に侵されるのであったが、やはりいらいらした何物かに苦しめられていた。
「坊ちゃんはお幾歳《いくつ》?」
 女は思い出したように、そんなことを訊いた。
「五つ。」笹村は自分を笑うように答えた。
 笹村はそこでまずい西洋料理などを取って食べた。
「この商売はそんなに悪い商売でしょうか。」女はそんなことを訊いた。
 笹村はそこに居たたまらなくなると、鳥打帽子に顔を隠して、やがて外へ出た。

     七十七

 そっちこっちへ手紙を出すのを仕事にしている女は、笹村のところへもどうかすると決り文句の手紙を男名で書いた。それがお銀の目にも触れた。それでなくとも、外から帰って来る笹村の顔から、その行き先を嗅ぎ出すくらいは、お銀にとってそんなむずかしいことでもなかった。そんな時のお銀の調子は、自分を恥じている笹村の心にとげとげしく触った。
「そんなものに関係なぞして、あなたは世間のいい笑いものになっていることを知らないんですか。深山さんでも誰でも、皆なそう言ってますよ。」
 お銀はムキになって、その女のことを口汚く罵《ののし》った。目の色も変っていた。
 二日ばかり、外をぶらついて帰って来た笹村は、お銀の神経をそんなに興奮させる何物もないのがおかしかったが、相手の心持に理解のないお銀の荒々しい物の言いぶりや仕草には、笑って済まされないようなことがあった。
 何事も投《ほう》り出して、ペンと紙だけポケットへ入れて、ある日の午後不意に笹村が家を出た時、お銀は何にも知らずにいた。それまで二人は幾度となくはしたなく言い争った。巣をかえてから、笹村の足の遠のいていた女のことは、もはやお銀の頭に何の煩いをも残さなかったが、そんなことでしばらく紛らされていた笹村の頭は、前よりも一層落着きを失っていた。そして年々煩わしさの増して行く生活につれていろいろに分裂している自分の心持を支えきれないような気がしていた。
 その日は雨がじめじめ降っていたが、汽車から眺める平野の青葉の影は、しばらく家を離れたことのない笹村の目に、すがすがしく映った。汽車は次第に東京の近郊から離れて、広い退屈な関東の野を走った。笹村の頭には今まで渦のなかにいるように思えた自分の家、家族の団欒《だんらん》、それらの影がだんだん薄くなって来た。そして今行こうとしている町の静けさと自由さが、沈澱《ちんでん》したような頭に少しずつはっきりして来た。どこへ旅しても、目は始終人や女の影を追うていた七、八年前の心持が、今と比べて考えられた。西の方へ長い漂浪《さすらい》の旅をした時は、ことにそうであった。家族と一緒に歩いている旅客を、船や汽車で見た時は、一層その念が強かった。その時の笹村の心には、どこへ行っても自然は気をいらいらさせる退屈な田舎の松並木に過ぎなかった。
 爽《さわや》かな初夏の雨は、汽車の窓にも軽く灑《そそ》いで来た。窓の前には、雨を十分吸い込んだ黒土の畑に、青い野菜の柔かい葉や茎を伸ばしているのが見えたり、色の鮮かな木立ち際に黝《くろず》んだ藁屋《わらや》が見えたりした。汽車のなかには、日光へ行くらしい西洋人の日に
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