の淡汁《うすづゆ》だとかいうものを食べさせるころには、衰弱しきっていた子供も少しずつ力づいて来た。お銀が勝手の方でといで来た米を入れた行平《ゆきひら》を火鉢にかけて、粥《かゆ》を拵えていると、子供は柔かい座蒲団のうえに胡坐《あぐら》をかいて、健かな餒《う》えを感ずる鼻に旨《うま》い湯気を嗅ぎながら待っていた。悪い盛りに、潅腸をする看護婦の手を押し除《の》けたころの執拗《しつよう》と片意地とは、快復期へ向いてからは、もう見られなかった。
さもうまそうに柔かい粥を食べる子供の口元を、夫婦は何事も忘れて傍から見守っていた。
「真実《ほんとう》によかったねえ、こんな物が食べられるようになって。」
お銀は口の側《はた》などを拭いてやりながら、心から嬉しそうに言った。
「そんなにやっては多くないか。」
中途|葛湯《くずゆ》で一度|失敗《しくじ》ったことのあるのに懲りている笹村は、医師の言う通りにばかりもしていられなかった。
「大丈夫ですよこのくらいは。あんまり控え目にばかりしているのもよし悪しですよ。」
お銀は柔かそうなところを、また蓮華《れんげ》で掬《すく》ってやった。
「どれ立ってごらん。」
笹村は箸をおいて、さも満足したように黙っている子供に言いかけた。
子供は窓際に手をかけてやっと起ちあがったが、長く支えていられなかった。
「まだ駄目だな。」
笹村は淋しそうに笑った。
その窓際では、次の女の子がやっと掴《つか》まり立ちをするころであった。長い病院生活のあいだ、ろくろく母親の乳房も哺《ふく》ませられたことなしに、よそから手伝いに来てくれている一人の女と女中の背にばかり縛られていた。看護疲れのしたお銀の乳が細ってからは、その不足を牛乳で補って来たが、それでも子供はかなり肥《ふと》っていた。女中はそれを負って、廊下をぶらぶらしたり、院長の住居の方の庭へ出て遊んだりした。院長の夫人からは、時々菓子を貰って来たりした。つい近所にあるニコライの会堂も、女中の遊び場所の一つになっていた。笹村は日曜の朝ごとに鳴るそこの鐘の音を、もう四度も聞いた。お銀も正一を負いだして、一度そこへ見に行った。
「何て綺麗なお寺なんでしょう。あすこへ入っていると自然《ひとりで》に頭が静まるようですよ。だけど坊やは厭なんですって。」
「僕も子供の時分は寺が厭だった。」
笹村は七、八つの時分に、母親につれられて、まだ夜のあけぬうちから、本願寺の別院の大きな門の扉《とびら》の外に集まった群集のなかに交って、寒い空の星影に戦《わなな》いていたことが、今でも頭に残っていた。「あの門跡《もんぜき》さまのお説教を聞くものは、これまでの罪が消えて、地獄へ行くものも極楽へ行ける」というような意味の母親の言《ことば》を耳にしながら、暗い広い殿堂のなかに坐っていた子供は、そこを罪を見現わされる地獄のように畏《おそ》れていた。その時の心理ほどはっきり頭に残っているものはなかった。
腹のふくれた小さい患者は、今までにない健かな呼吸遣《いきづか》いをして、じきに眠ってしまった。
「さあ、私坊やの寝ているまに、ちょっとお湯へ行きたいんですがね。」
お銀はここへ来てから時を見計らっては来てくれるお冬に、時々髪だけは結ってもらっていたが、一度もお湯に入る隙を見出すことができなかった。
そこらを取り片着けてから、お銀が出て行ったあとの病室に、笹村はぽつねんと壁にもたれて子供の寝顔を番していた。そして疲れた頭が沈澱《ちんでん》して来ると、そこにいろいろ始末をしなければならぬ退院後の仕事が思い浮んで来た。「退院するときあまり変な見装《みなり》もして出られませんしね。」と言ってお銀の気にしていたことも考えられた。
お銀はつやつやと紅味《あかみ》をもった顔を撫《な》でながら、じきに帰って来た。
七十二
退院後の家が、子供に珍らしかったと同じに、暗いところに馴れたお銀や笹村の目にも新しく映った。ふっくらした軟かい着物を着せられて、茶の間の真中に据えられた子供は、外の世界の強い刺戟に痛みを覚えるような力のない目を庭へ見据えていた。顔もまだ曇っていた。
もう退院してもよかろうかといって尋ねた笹村に、「そう。もう少し。」と言って、院長は子供の腹工合を撫でて見ながら、
「予定より少し長くなったが、今度はもう大丈夫――随分苦しかったな。」と笑いながら引きあげた。
それから二、三日も経った。後はしばらく通うことにしてとにかく夫婦は病院を引き払うことにした。その日は朝から、二、三日降り続いていた天気があがりかけて、細い雨が降っているかと思うと、埃《ほこり》のたまった窓の硝子に黄色い日がさして来たりした。
「今日退院しよう。」
笹村は昼飯を喰ってから間もなく言い出した。もう見舞いに来る人も少くなった病室に、子供は配《あてが》われたウエーファを手に持ったまま、倦《う》み果てたような顔をして、ベッドに腰をかけていた。家から運んで来て庭向きの窓の枠《わく》に載せておいた草花も、しばらく忘れられて水に渇《かわ》いて萎《しお》れていた。
「それじゃ私はちょッと家まで行って来なくちゃ……。」お銀はその不意なのに驚いたようであった。
「家へ連れて帰ったら、かえってずんずん快《よ》くなるかも知れませんね。――さあ、それじゃ私行って来ましょう。」
そう言ってお銀は髪など撫でつけながら、病気が恢復期へ向いたころに、笹村が買物のついでに、淡路町《あわじちょう》の方で求めて来た下駄をおろして、急いで出て行った。
その間、笹村は子供を抱え出して、廊下をぶらぶらしていた。むずかしい病人がしきりに担ぎ込まれたり、死骸が運び出されたりした。ひところに比べると、そのころの病院の景気は何となく、だらけたものであった。死目になって張り詰めていた笹村の心にも、弛《ゆる》びと安易との淡い哀愁が漂っていた。廊下の突当りに、笹村の来ぬ前から痩せ細った十一、二の女の子を看護している婆さんだけが、今では笹村夫婦の一番古い馴染《なじ》みであった。その病人は里流れになった子であった。たまにパナマの帽子を冠った実の父親が訪《たず》ねて来ても子供は何の親しみも感じなかった。
「可哀そうなもんですね。」
お銀は時々その部屋を見て来て、目を曇《うる》ませながら笹村に話した。
「家の坊やも、あなたの言うとおりに人にくれていたら、やっぱりあんなもんですよ。」お銀はそうも言っていた。
「母さんは……。」と言って、時々待ち遠しそうに顔を曇らしている正一を笹村は上草履のまま外へ抱え出した。
町には薄暗い雲の影がさしていた。笹村はそこから電車通りへ出て、橋袂の広場を見せて歩いた。そうしているうちに、お銀が風呂敷包みなどを抱えて、車で駈けつけて来た。
家では神棚に燈明が上げられたりした。神棚に飾ってある種々のお礼のなかには、髪結のお冬が、わざと成田まで行って受けて来てくれたものなどもあった。
じきに催して来た子供の便には、まだ粘液が交っていた。
「やっぱりつれて来て悪かったでしょうかね。」
お銀はお丸を覗き込んでいる笹村に呟いた。
一時に疲れの出たお銀が、深い眠りに沈んでいる傍で、笹村は時々夜具をはねのける子供を番していた。蚊帳の外には、まだ蚊の啼き声がしていた。
七十三
「何はおいても、お義理だけは早くしておきたいと思いますがね……。」と言うお銀に促されて、床揚げの配り物をすると一緒に、お冬へ返礼に芝居をおごったり、心配してくれた人たちを家へ呼んだりするころには、子供はまだ退院当時の状態を続けていたが、秋になってからは肥立ちも速《すみや》かであった。そしてその冬は、年が明けてから、ある日出先のお銀の弟の家で、急にジフテリアに罹《かか》って、危いところを注射で取り留めたほかは何事もなかった。
「この子は育てるのに骨が折れますよ。十一になるまで、摩利支天《まりしてん》さまのお弟子にしておくといいんだそうですよ。」
お銀はお冬の知合いのある伺いやの爺さんから、そんなことを聞いて来たりした。
しかしうっちゃっておいても育って行くように見えた、次の女の子が、いつもころころ独りで遊んでばかりいないことが、少しずつ解って来た。この子供は、不断は何のこともない大人の弄物《おもちゃ》であったが、どうかして意地をやかせると、襖《ふすま》にへばりついていて、一時間の余も片意地らしい声を立てて、心から泣きつづけることがあった。
「いやな子だな。豚の嘴《くちばし》のような鼻をして……此奴《こいつ》は意地が悪くなるよ。」
笹村は小さい自我の発芽に触るような気がした。
「巳年《みどし》だから、私に似て執念ぶかいかも知れませんね。」
そう言って子供を抱き締めているお銀は、不思議にこの子の顔の見直せるようになって来るのに、一層心を惹《ひ》かれていた。
「あなたは坊だけが可愛いようですね。私はどちらがどうということはありませんよ。」
時々そんなことを口にする母親の情がだんだん大きい方の子供に冷《さ》めて行くのが笹村によく解った。
「そうさ、体質から気質まで、正一のことは己には一番よく解る。」
そしてその交感の鋭いのが、笹村にとって脱れがたい苦痛の一つであった。
その冬笹村のふと冒された風邪《かぜ》が、長く気管支に残った。熱がさめてからも、まだ咽喉《のど》にこびりついているような痰《たん》が取れなかった。時々|悪寒《おかん》もした。笹村は長いあいだ四畳半に閉じ籠って寝ていた。そして障子の隙間から来る風すらが、薄い皮膚に鋭く当った。
「とうとうこじらしてしまった。」笹村は痩せ細った手を眺めながら、憤《じ》れったそうに呟いた。
「こんな物が来たんですよ。」
お銀はある日の晩方に、鏡台の抽斗《ひきだし》から一枚の葉書を出して、笹村に見せた。その葉書は磯谷から、いつかの大工の女房になっているお針の女へ当てたものであったが、書中にお銀の今の居所が尋ねてあった。その意味では、お銀がとうとう笹村のところに落ち着いたことを知らないらしかった。
笹村は拙《まず》いその手蹟や、署名のある一枚の葉書に、血のむず痒《がゆ》いようななつかしさを覚えた。
「へえ。じゃまたお前に逢おうとでも思っているんだね。」
「そんなことかも知れませんよ。あの男は、一旦別れた女を、一、二年経つとまた思い出して来るのが癖なんです。今は何かあるかないか解りませんけれど、一人決まった女と関係していると、ほかの女のことが、やっぱり気になると見えるんですね。そして先方《むこう》の忘れた時分に、ふっと逢いに行って謝罪《あやま》ったり何かするんです。妙な男ですよ。」
「面白いね。」
「やっぱり気が多いんでしょうね。」
「今はどこにいるね。」
「どこにいるんですか。むろん学校の方も失敗《しくじ》ってしまったんですから。」
「どこかで一度くらい逢っているだろう。」
「逢えば逢ったとそう言いますよ。」
七十四
笹村はどんな片端《きれっぱし》でもいい、むかし磯谷からお銀に当ててよこした手紙があったらばと、それを捜してみたこともあった。読んで胸をどきつかすようなあるものを、その中から発見するのが、何よりも興味がありそうに思えた。笹村は独りいる時に、よく香水や白粉の匂いのする鏡台、箪笥、針箱、袋の底などを捜してみるのが好きであった。それは子供のおり田舎の家の暗い押入れにある母親の黴《かび》くさい手箪笥や文庫のなかを捜すとちょうど同じような心持であった。けれど書き物と言っては、お銀の叔父が世盛りのときに、友達に貸した金の証書の束、その時分の小使い帳、幾冊かの帳簿、その他は笹村の名の記されたものばかりであった。証書の束のなかにはかなりな金額の記されたものもあった。お銀の覚えている人も、その中に一人二人はあるらしかった。
「尋ねて見ようかしら。」
お銀が時々そんなことを言っているのを、笹村も聴いた。そして、そのたびに、「誰しも貸して取れないのがあれば、一方には借りて返さないのもある
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