笹村が朝飯をすましてから、新聞や捲莨《まきたばこ》などを当てがっておいて、長いあいだの埃《ほこり》の溜った書斎の方へ箒《ほうき》を入れた。そしてだらしなく取り乱《ち》らかされたものを整理したり、手紙を選《え》り分けたりした。赭《あか》ちゃけた畳に沁み込むような朝日が窓から差し込んで、鬢《びん》の毛にかかる埃が目に見えるほど、冬の空気が澄んでいた。
笹村は落ち着いて新聞すら見ていられなかった。投《ほう》り出されてあった仕事も気にかかって来たし、打ち釈《と》けるとじきに相談相手にされる生活のことなども、頭に絡《まつ》わっていた。仕事にかかる前に、どこかで一日気軽に遊びたいような気もしていた。
「今日はどこかへ行こうかな。」
笹村は変った柄の手拭を姉さん冠《かぶ》りにして、床の間を片着けているお銀の後姿を入口から眺めながら呟いた。お銀は亡くなった叔父が道楽をしていた時分に、方々で貰った手拭を幾十本となく箪笥に持っていた。
「行ってらっしゃいよ。」
お銀はばたばたと本にハタキをかけながら言った。
「私も行きたいけれど……あなたどこへいらっしゃるの。私何かおいしいものを食べたい。天麩羅《てんぷら》か何か。――ねえ、坊だけつれて行きましょうか。」
お銀はにっこりした顔をあげた。
「私ほんとにしばらく出ない。子供が二人もあっちゃ、なかなか出られませんね。」
「何なら出てもいい。」
笹村は縁側の方へ出て、澄みきった空を眺めていた。
「中清《なかせい》で三人で食べたら、どのくらいかかるでしょう。私もしばらく食べて見ないけれど……。」と考えていたが、じきに気が差して来た。
「ああ惜しい惜しい。――それよりか、もうじき坊のお祝いが来るんですからね。七五三の……。子供にはすることだけはしてやらないと罪ですから。」お銀は屈託そうに言い出した。
そんな見積りをしていたことは、大分前から笹村も知っていた。
「間に合わないと大変ですから、私今日にもお鳥目《あし》を拵えて、註文《ちゅうもん》だけしておいてよござんすか。」
笹村は仲たがいしていた間のことが、一時に被《かぶ》さって来たようであったが、これをはっきりやめさすことも出来なかった。
笹村と一緒に下町へ買物に出かけたお銀は、途中で手軽な料理屋を見つけてそこで夕飯を食べた。
「たまには外へ出るのもよござんすね。」といって、お銀はほっとしたような顔をして、猪口に口をつけた。
「私こんなところを歩くのは幾年ぶりだか。たまに来てみると髪や何か、女の様子が山の手とまるで違っていますね。」
お銀は長いあいだ異《ちが》った水に馴《な》らされて来た自分の姿を振り顧《かえ》られるようであった。いつも女らしく着飾ったこともなしに、笑ったり泣いたりしているうち、もう二人の子の母になった。四年の月日は、夢のように流れた。笹村と一緒にここで酒を飲んでいるのも、不思議なようであった。
「前に来た時分からみると、ここの家も随分汚くなりましたね。」お銀はちらちらするような目容《めつき》をした。
「磯谷とだろう。」
笹村は笑いかけると、お銀も、
「いいえ。」といって笑った。
そこを出てから、二人はぶらぶら須田町のあたりまで歩いた。産後から体が真実《ほんとう》でないお銀は、電車に乗るとじきに胸がむかついた。電車は暗い方から出て来て、明るい方へ入ったり出たりした。青い火花が空に散るたびに、お銀は頭脳がくらくらするほど、眩暈《めまい》がした。
「私どうしてこんなに意気地がなくなったんでしょう。」
お銀はおかしそうに笑いながら、笹村の手に掴《つか》まってやっとレールを渡った。
六十二
「あなたあなた……。」と、お銀は外から帰ると書斎へ入って行く笹村の後を追いながら声をかけた。
出癖のついた笹村は、毎日あわただしいような心持を、どこへ落ち着けていいか解らなかった。ちょうど長火鉢のところから見える後庭の崖際にある桜の枝頭《えださき》が朝見るごとに白みかかって来る時分で、落着きのない自分の書斎を出ると、気紛《きまぐ》れな笹村の足はどこという的《あて》もなしにいろいろの方へ嚮《む》いて行った。それでもやはり机のあたりが気にかかって、出たかと思うと、じきに帰って来るようなことが多かった。
「ひょっとすると、私たちはこの家を立ち退かなければならないかも知れませんよ。」
お銀は坐るまもなく、今日この家の買い主らしい隠居をつれて、家主の番頭の来たことを話し出した。
「へえ、そうかね。」と言って、莨をふかしている笹村の頭には、まだ世帯持ちらしい何物も揃っていないが、何や彼や複雑になって来た家を移すということの億劫《おっくう》さが思われた。引っ越すには纏《まと》まった金を拵えなければならなかった。
「けど立ち退くにしても、いずれ今日明日ということでもないでしょうからね。」
お銀は笹村に安易を与えるような調子で言った。
見すぼらしい道具を引き纏めて小石川の方に見つけた、かなり手広な家へ引き移ったのは、それから間もないことであった。それまでに、お銀も一度笹村について、その家を見に行った。そして空《あ》き店《だな》を番している老人に逢って、いろいろの話を取り決めた。
「あんたまだ若い。お子供衆が二人もあるとは思えませんぜ。」
家主は毛糸の衿捲《えりま》きを取って、夫婦に茶を侑《すす》めなどした。
笹村は何よりも、茶の間の方と、書斎や客間の方の隔りのあるのが気に入った。茶の間の方には、茶室めいた造りの小室《こま》さえ附いていた。庭には枝ぶりのよい梅や棕櫚《しゅろ》などがあった。小さい燈籠《とうろう》も据えてあった。
そこへ落ち着いて、広い座敷に寝た笹村は旅にいるような心持がした。
笹村が前の家から持って来た萩《はぎ》の根などを土に埋《い》けていると、お銀は外へ長火鉢などを見に出て行った。古い方は引っ越すとき屑屋《くずや》の手に渡ってしまった。
「いくら何でも、こんなものはきまりがわるくて持ち出せやしませんわ。」
お銀は落しのおちたその古火鉢を眺めながら、何もかまわない笹村に不足を言った。それでも手放すには、あまりいい気持はしなかった。拭くのも張合いのないその抽斗《ひきだし》の底には、どうなるか解らなかった母子の身の上を幾度となく占《うらな》った古い御籤《みくじ》などが、いまだに収《しま》ってあった。
笹村は座敷の方に坐っているかと思うと、また落着きもなく勝手の方へ来て、少し高くなった四畳半の小室の方へやって来て、丸窓の下に寝転んだり、飛び石の多い庭へ下り立って見たりした。日によって庭にはどうかすると、砲兵工廠から来る煙が漲《みなぎ》り込んで、石炭|滓《かす》が寒い風に吹き寄せられて縁の板敷きに舞っていた。そんな日にはきっと空が曇って、棕櫚や竹の葉がざわざわと騒がしかった。笹村の頭も重苦しかった。
「これじゃしようがない。」
お銀は時々障子を開けて見ながら呟いた。
「それにこの家の厠《はばかり》の位置が、私何だか気に喰いませんよ。」
人殺しをしたある兇徒《きょうと》の妾《めかけ》が、ここにいたことがあるという話が、近所の人の口から、お銀の耳へじきに入った。
「そうさ、お前には隠していたけれど……。」
笹村はそれを聞いて笑い出した。
六十三
人を二人まで締め殺して、死骸を床下に埋めておいたというその兇徒は、犯罪の迹《あと》を晦《くら》ますためにじきにその家を引き払った。その時移って来たのが、この家であった。笹村が移って来る以前にいたある翻訳家も、その当時警官や裁判官に入って来られて、床下の土も掘り返されなどした。――そんな事実が、お銀をして急にこの家を陰気くさく思わしめた。折合いの悪い継母を斬りつけたという自分の前の亭主のことが、それに繋がって始終お銀の頭に亡霊のようにこびり着いていた。新聞に出ていた兇徒の獰猛《どうもう》な面相も、目先を離れなかった。
お銀は蒼い顔をして、よく夜更《よなか》に床のうえに起きあがっていた。そしてランプの心を挑《か》き立てて、夜明けの来るのを待ち遠しがっていた。
「ねえ、早く引っ越しましょうよ。私寿命が縮むようですから。」
お銀は朝になると、暗い顔をして笹村に強請《せが》んだ。笹村もそれを拒むことができなかった。
笹村も、いつか通りがかりにちょっと立ち寄ったことのある、お銀の先に縁づいていた家のことが思い出された。その家は、笹村がお銀の口から聴いて、想像していたほど綺麗な家ではなかった。東京に若い妾などを囲って、界隈《かいわい》に幅を利かしているというそこの年老《としと》った主、東京に芸者をしていたことがあるとか言ったその後添いの婆さん、仲人の口に欺《だま》されて行ったお銀が、そこにいた四ヵ月のあいだのいろいろの葛藤《かっとう》、ステーションまで提灯を持って迎いに出ていた多勢の町の顔利きに取り捲かれて、お銀が乗り込んで行ったという婚礼の一と晩の騒ぎ、そこへのこのこある日お銀に会いに行った磯谷の姿を見て、お銀が泣いたという芝居じみた一場の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、264−下−19]話、そんなようなことが妙に笹村の好奇心をそそった。そうした客商売をしている家にいたころのお銀は、厭《いと》わしいような、美しいようないろいろの幻を、始終笹村の目に描かしめていた。
汽車から降りて、その辺の郊外を散歩していた笹村の足は、自然《ひとりで》に、その家の附近へ向いて行った。そしてそんなような家を、あれかこれかとそちこち覗《のぞ》いて行《ある》いた。
若いおりの古いお銀の匂いを、少しでも嗅ぎ出そうとしている笹村は、鋭い目をして、それからそれへとお銀の昔いた家を捜してあるいた。笹村の前には、葱青《あさぎ》、朽葉《くちば》、紺、白、いろいろの講中《こうちゅう》の旗の吊《つ》るされた休み茶屋、綺麗に掃除をした山がかりの庭の見えすく門のある料理屋などが幾軒となくあった。
そんな通りから離れると、さらに東京の場末にあるような、かなり小綺麗な通りが、どこまでも続いていた。駄荷馬や荷車が、白い埃の立つその町を通って行った。人力車も時々見かけた。町の文明の程度を思わしめるような、何かなしきらきらした床屋があったり、店の暗い反物屋があったりした。冬の薄い日光を浴びて、白い蔵が見えたり、羽目板の赭《あか》い学校の建物が見えたりした。
笹村の疲れた足は、引き返そう引き返そうと思いながら、いつかそのはずれまで行ってしまった。そこからはまだ寒さに顫《ふる》えている雑木林や森影のところどころに見える田圃面《たんぼづら》が灰色に拡がっていた。
その白けたような街道では、東京ものらしいインバネスの男や、淡色のコートを着た白足袋の女などに時々|出遭《であ》った。
笹村はその道をどこまでもたどって行った。
六十四
時々白い砂の捲き上る道の傍には、人の姿を見てお叩頭《じぎ》をしている物貰いなどが見えはじめて、お詣《まい》りをする人の姿がほかの道からもちらほら寄って来た。それがだんだん笹村を静かな町の入口へ導いて行った。
この町にも前に通って来た町と同じような休み茶屋や料理屋などがあったが、区域も狭く人気も稀薄《きはく》であった。不断でもかなりな参詣人《さんけいにん》を呼んでいるそこの寺は、ちょうど東京の下町から老人や女の散歩がてら出かけて行くのに適当したような場所であった。四十から五十代の女が、日和下駄《ひよりげた》をはいて手に袋をさげて、幾人となくその門を潜《くぐ》って行った。中には相場師のような男や、意気な姿の女なども目に立った。
勝手違いなところへ戸惑いをして来たような気がして、笹村がじきにその境内から脱けて出たころには、風が一層寒く、腹もすいていた。しばらくすると笹村は疲れた体を、ある料理屋の奥まった部屋の一つに構えていた。
笹村は近ごろの増築らしいその部屋の壁にかかった、正宗やサイダの広告、床の間の掛け物や、瓶に※
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