《たくら》んでいるらしく、その場の光景が、しばらくぶりで帰って来たお銀の目に映った。お銀の猜疑《まわりぎ》は、笹村に負けないほど、いつも暗いところまで入り込んで行かなければ止《や》まなかった。

     五十四

 産は前より軽かったが、お銀の健康は冬になるまで恢復しなかった。一度水々しい艶《つや》を持ちかけて来た顔色は、残暑にめげた体と一緒に、また曇《うる》んで来た。手足もじりじり痩せて、稜立《かどだ》った胸の鎖骨のうえのところに大きな窪《くぼ》みが出来ていた。
 ある知合いの医師《いしゃ》は、聴診器を鞄にしまうと、目に深い不安の色を見せて、髯《ひげ》を捻《ひね》りながら黙っていた。
「肺じゃないか。」
 お銀が茶の室《ま》へ立って行ってから、笹村はたずねた。
 笹村は比較的骨格の岩丈《がんじょう》な妻の体について、これまで病気を予想するようなことはめったになかった。どうかすると鼻《はな》っ張《ぱ》りの強いその気象と同じに、とても征服しきれない肉塊に対してでもいるような気がしていたが、それもだんだん頽《くず》されそうになって来た。笹村は自分の体を流れている悪い血を、長いあいだ灑《そそ》ぎかけて来たようにも思えて、おそろしくもあった。
「浜田さんか橋爪さんに、私一度見てもらいたい。」
 お銀は時々そう言って、思うように肥立《ひだ》って来ない自分の体を不思議がったが、やはりずるずるになりがちであった。
「誰でもいいから予診をしてもらったらいいじゃないか。」
 笹村もお銀の気の長いのを、時とするとじれったく思うことがあったが、衰弱がどこまで嵩《こう》じて来るか、じっと見ていたいような気もした。終局は誰が勝利を占めるか……そうしたブルタルな気分に渇《かわ》くこともあった。若いその医師《いしゃ》は、容易に症状を告げなかった。
「まあ大学か順天堂へでも行って診《み》ておもらいなすった方がいい。ひょっとすると、肺に少し異状がありゃしないかとも思う。」
「何だか少しおかしいぜ。」
 笹村は医師が帰ってから、お銀に話しかけた。
「何だって言うんです。」
 お銀は若い医師に、頭から信用をおかないような調子で言った。
 明日その医師と一緒に病院へ診てもらいに行ったお銀の病気が、産後にはありがちな軽い腎臓病だということが解るまではお銀は何も手につかなかった。
「そうですかね。私もとうとうそんな病気になったんですかね。」
 平常《ふだん》のように赤子を抱いたり、台所働きをしているお銀の姿は、笹村の目にもいたましげに見えた。
「どれ、ちょッとお見せ。」と、笹村は気遣わしそうに胸を出さして見た。肋骨《ろっこつ》のぎこぎこした胸は看《み》るから弱そうであった。
「何て厭な体でしょう。骨ばかり太くて……。」
 お銀は淋しそうに自分の首や胸に触《さわ》って見た。そして肌をいれながら、
「私死んでもいい。子供さえなければ……。」
「何大丈夫だよ。きッと癒してやる。」
 笹村は心丈夫そうに笑って見せた。
「して見ると、あなたの方が丈夫なんですかね。」
「けれど、女の方はお産があるから……。」
 お銀は一ト月ばかり牛乳と薬を服《の》み続けていたが、腎臓の方が快くなると、じきに飽いて来た。
 涼気の立つころには、痩せていた子供も丸々肉づいて来るくらい、乳もたッぷりして来たが、時とするとお銀はやはりかかりつけの医者へ通った。
「あなたにちょいと来て下さいって、高橋さんがそう言いましたよ。」
 お銀はある日医者から帰ると、笹村に言い出した。
「何ですか、あなたに逢って、よく相談したいことがあるんだそうです。」

     五十五

 女のように柔和なその医者は、子供を診るのが上手であった。噛《か》んでくくめるように、容態なども詳しく話してくれるので、お銀も自然心易くしていた。一緒にいた芸妓《げいしゃ》あがりらしい女と、母親との折合いがわるくて、このごろ後釜《あとがま》に田舎から嫁が来ているという事情などもお銀はよく知っていた。
「あの書生さんが、またどことなく人ずきのする男ですよ。」とお銀はその薬局まで気に入っていた。
 お銀のことなどで、その医者に呼びつけられることは笹村にとって、あまり心持よくなかった。
「何んだつまらない、わざわざ人を呼びつけたり何かしやがって……。」
 笹村は帰って来ると、お銀に憤りを洩らした。笹村を詰問でもするらしい調子に出ようとした医者の態度は、お銀の若いその医者に対する甘えたような様子を想像せしめるに十分であった。
「今度は一つ、いい医者に診ておもらいなさらなけアいけませんよ。」
 医者のそう言った口吻《くちぶり》には、妻に対する良人の冷酷を責めでもするような心持がないとは言えなかった。
「高橋さんは何かあなたに失礼なことでも言ったんですか。」
 お銀は不思議そうな顔をした。
「だって私独りで病院へ行っても、明き盲ですからね。もし行くなら、高橋さんが婦人科の掛りを知っているから、一緒について行ってよく話をしてあげてもいい。とにかく一応あなたにも話すから……とそう言ったまでじゃありませんか。」
 この前にも知合いの医者に連れて行ってもらったことのあるお銀が、勝手の解らない広い病院で、あっちへまごまごこっちへまごまごするのが厭さに、始終出無精になっていたのは笹村にも呑み込めないことでもなかったが、そうした筋道の立ったお銀の言い分は、一層笹村の心をいらいらさせずにはおかなかった。
 不快な顔を背向《そむ》け合っていることが、幾日も続いた。笹村はそのまま病院へ行こうともしないでいる妻の無精を時々笑ったが、お銀はさほど気にもしないらしかった。
 前にもついて行ったことのある知合いの医者と一緒に、ある日大学の婦人科へ診てもらいに行ったのは、それから大分経ってからであった。
「今どこと言って、別に悪いところはないんですって……。」
 帰ってくると、お銀は晴れ着のまま、笹村の傍へ来て話し出した。
「ただお産の時に、子宮が少し曲ったんだそうですけれど、それは今度のお産の時にでも直せばいいそうです。今はほんの一週間も、洗うなら洗ってみてもいいって言うんですの。」
「へえ、そうかね。」笹村はその診断があっけないような気がした。
 潤沢《うるおい》も緊張《しまり》もないお銀の顔色は、冬になると、少しずつ、見直して来たが、お産をするごとに失われて行く、肉の軟かみと血の美しさは恢復《とりかえ》せそうもなかった。

     五十六

 そのころから、お銀はおりおり笹村の古い友達の前へ出て、酒の酌《しゃく》などをした。髪の抜け替わろうとしている鬢際《びんぎわ》の地の薄くすけて見えるお銀のやや更《ふ》けたような顔は、前よりはいくらか落ち着いてもいたし、媚《なまめ》かしさも見えた。そして遠慮なく膝を崩すような客に対する時の調子も、笹村が気遣ったほどには粗雑《がさつ》でもなかった。
 笹村が一週間ばかり、いろいろ紛糾《こぐらか》っている家庭の不快さを紛らしに、ふいと少しばかりのマネーを懐にして、海辺へ出て行った留守のまに、子供の帽子などを懐にして、宅《うち》を見舞ってくれる人などもあった。その男は、上《あが》り框《がまち》に腰かけてしばらく話し込んで行った。
「ぜひ遊びにいらっしゃい。笹村君が何か言えば、私がうまく言っておきますから……。」と、気軽にそんな愛想を言って行ったことなどを、お銀は後で笹村に話した。
「あの方なぞのお宅もさぞ立派でしょうね。――どんな風だか、後学のためによその家も私見ておきたい。」
 お銀は笹村の説明を聞いて、何にもない自分の家の部屋を気にしだした。
 海辺へ出て行くときの笹村の頭はくさくさしていた。じめじめした秋の雨が長く続いて、崖際《がけぎわ》の茶の室《ま》や、玄関わきの長四畳のべとべとする畳触りが、いかにも辛気《しんき》くさかった。そんな雨を潜《くぐ》りながら赤子を負って裏木戸から崖下の総井戸へ水を汲みに出て行った母親が、坂のところで躓《つまず》いて転んで、前歯が二本ぶらぶらになってから、ここの家の住みにくいことが、また母子《おやこ》の口から繰り返されなどした。
 飯を食うたびに、その歯を気にしている母親の顔を、お銀はいたましそうに眺めていた。笹村には、それが何か大きな犠牲でも払ったかのように思わせようとしているらしくも見えた。
「だから老人《としより》には無理ですよ。壮ちゃんに汲んでもらえばいいんだけれど、やはりそうも行かないし……。」お銀は笹村に当てこするような調子で言った。
 家を畳んで、そのころ渋谷《しぶや》の方のある華族の邸に住み込んでいた父親が、時々|羽織袴《はおりはかま》のままでここへ立ち寄ると、珍らしい菓子などを袂《たもと》から出して正一にくれなどした。
「御隠居が、こんな物をくれたで……。」と、綺麗な巾着《きんちゃく》を、紙に包んだまま娘の前に出すこともあった。
「工合はいかがです。」と、笹村はたまに愛想らしい口を利いた。いろいろの才覚のあるこの老人が、だんだん奥向きのことに係《たずさ》わるようになっていることは、笹村にも頷《うなず》かれたが、そこの窮屈な家風に、ようやく厭気《いやき》のさしていることも、時々の口吻《くちぶり》で想像することが出来た。
「何分|私《わし》も年を取っているもんだで……。」
 この五、六年田舎で懶惰《らんだ》に日を暮した父親は、ほかに何か気苦労のない仕事があるならばと、もうそれを考えているらしくも見えた。
 笹村は、そんな内輪の事情を、そのころまた旧《もと》の友情の恢復されていた深山にだけ時々打明け話をしたが、やはり独りでもだもだと頭を悩ましていることが多かった。そうして気が結ぼれていると、苦しい頭が狂い出しそうになった。

     五十七

 そんな周囲の事情は、お銀のちょっとした燥《はしゃ》いだ口の利き方や、焦《いら》だちやすい動物をおひゃらかして悦《よろこ》んでいるような気軽な態度を見せられるたんびに、笹村をして妻を太々しい女のように思わしめた。そして圧《お》し潰されたような厭な気分で、飯を食いに出るほかは、狭い檻《おり》のような自分の書斎のなかに、黙って閉じ籠ってばかりいた。笹村の臆病な冷たい目は、これまでに触れて来た女の非点《あら》ばかりを捜して行った。
 朝の食膳に向っている時、そうして張り合っている不快な顔の筋肉が、ふとくすぐられるような弛《ゆる》びを覚えて、双方で噴飯《ふきだ》してしまうようなことはこれまでにめずらしくなかったが、このごろの笹村の嫌厭《けんえん》の情は妻のそうした愛嬌《チャーム》を打ち消すに十分であった。
 笹村の目には、これまでにない醜い女が映って来た。そしてそれを見つめている苦しさに堪えられなかったが、お銀の頭にも、夫婦間に迫っている危機が感ぜられた。そして時々自分の前途を考えないわけに行かなかった。
 茶の室《ま》で、怯《おび》えたようなお銀が蔭でそっと差図して拵えさした膳に向って、母親の給仕で飯を食うのが苦しくなって来ると、笹村はそれを書斎の方へ運ばした。そして独りで寂しい安易な晩飯を取った。夜も冷や冷やする寝床のなかで、やっとうとうとしかけた眼がふと覚めると、痛いほど疲れた頭が興奮して来た。笹村はランプの心を挑《か》き立てて、時々蒲団のうえに起き直った。そして本など拡げて、重苦しい頭を慰《いや》そうとあせるのであったが、性のよくない目は、刺すような光に堪えられないほど涙がにじみ出して来た。呼吸《いき》も苦しかった。
 笹村は、よく夜更《よなか》に寂しい下宿の部屋から逃れて、深い眠りに沈んでいる町から町を彷徨《さまよ》い、静かな夜にのみ蘇生《よみがえ》っている、深山の書斎の窓明りを慕うて行ったころのことを思い出していた。そして、しらしらした夜明け方に、語りくたびれて森や池の畔《はた》を歩いていた二人の姿を考えた。
 笹村は、触る指頭《ゆびさき》にべっとりする額の脂汗《あぶらあせ》を拭いながら、部屋を出て台所へ酒や食べ物を捜しにでも行くか、お
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