笹村の頭脳《あたま》には、磯谷という男のことがふと閃《ひらめ》いていた。磯谷の伯父のところに奉公していたという年増《としま》の女に、お銀は近ごろ思いがけなく途中で邂逅《でっくわ》してから、手の利くその女のところへ、時々仕立て物を頼みなどしていることは、笹村も見て知っていた。その女は今は近所に住んでいる小工面のよいある大工に嫁入りしていた。仕立て物を持って来た女は、笹村の部屋の入口へも顔を出してお辞儀などした。
「変な女でしょう。」と、お銀は後で若い亭主を持っているその女のことを笑った。
「あれでも手はどんなに利くもんだか……私の叔父は始終あれに縫わしたんですの。」
そう言って見せる仕立て物は、笹村の目にもいかにも手際がよいように見えた。
この女を透《とお》して、お銀と磯谷との消息が通じているのではないかと、笹村は時々そういうことを感ぐって見たりなどした。夜使いに出たお銀の帰りの遅いときも、笹村の頭にはおりおり暗い影がささないわけに行かなかった。そういうとき、笹村は泣き出す正一を抱き出して、灯影の明るい通りの方へ連れて行った。そうしてお銀の帰るのを待ち受けた。
買いものの好きなお銀は、出たついでにいろいろなものをこまごまと擁《かか》えて、別の通りから冴《さ》え冴《ざ》えした顔をして家へ帰って来ていた。
「これを召し食《あが》ってごらんなさい、名代の塩煎餅《しおせんべい》ですよ。金助町にいる時分、私よくこれを買いに行ったものなんです。」
お銀は白い胸を披《はだ》けながら、張り詰めた乳房を啣《ふく》ませると、子供の顔から涙を拭き取って、にっこり笑って見せた。
「私途中で、岡田さんの奥さんに逢ったんですよ。しばらく来ないから、どうしたのかと思ったら、あの方たちも世帯が張りきれなくなって、二、三日前に夫婦で下宿へ転《ころ》げちゃったんですって……。」
お銀は塩煎餅を壊しながら、そんな話をしはじめるのであった。
笹村の当て推量は、その時はそれで消えてしまうのであったが、外出をするお銀の体には、やはり暗いものが絡《まつ》わっているように思えてならなかった。
「三度目に、こんな責任を背負わされるなんて、僕こそ貧乏籤《びんぼうくじ》を引いてるんだ。」笹村は揶揄《からか》い半分に言い出した。
「三度目だって、可愛そうに……片づいていたのは真《ほん》の四ヵ月ばかりで、それも厭で逃げたくらいなんだし、磯谷とは三年越しの関係ですけれど、先は学生だし、私は叔父の側《そば》にいるしするもんだから、養子になるという約束ばかりで、そうたびたび逢ってやしませんわ。」
四十五
笹村の口から磯谷のことをいろいろに聞かれるのは、お銀にも悪い気持はしなかったが、その話も二人にとって、次第に初めほどの興味がなくなってしまった。お銀と磯谷との関係と磯谷の人物とがはっきり解って来れば来るほど、笹村の女に対する好奇心は薄らいで来たが、お銀の胸にもその時々の淡々しい夢はだんだん色が剥《は》げて来た。それでも時々笹村に身を投げかけて来るようなお銀の態度には、破れた恋に対する追憶《おもいで》の情が見えぬでもなかった。その時の女は、そう想像して見ると、笹村の目に美しく映った。
「でも、あの女から、磯谷が今どうしているかということぐらいは、お前も聞いたろう。」
笹村はその男が持っていたという銀煙管《ぎんぎせる》で莨をふかしながら聞いたが、お銀にしては、それは笹村の前に話すほどのことでもないらしかった。
「やはりぶらぶらしているっていう話ですがね。」
お銀の目には、以前男のことを話す時見せたような耀《かがや》きも熱情の影も見られなかった。
「お前の胸には、もうそんな火は消えてしまったんだろうか。」
笹村はもう一度、その余燼《よじん》を掻き廻して見たいような気がしていた。
「いつまでそんなことを思っているものですか。思っているくらいなら、こうしちゃいませんよ。それに一度でも逢っていれば、それを隠しているなんてことは、とても出来るもんじゃありませんよ。」
妊娠ということが、日が経つにつれてだんだん確実になって来た。
「どうしてもあなたには子種があるんですね。だって、深山さんの妹さんがあなたの体を見て、そう言ったっていうじゃありませんか。」と、お銀は笹村の顔を見て笑った。
「でもいいわ。一人じゃ子供が可哀そうだから、三人くらいまではいいですよ。」
笹村はそのころから、少しずつ金の融通が利くようになっていた。新しい本屋から、原稿を貰いに来る向きも一、二軒あったし、しまっておいた新聞の古も、いつとはなしに出て行った。それだけ暮しも初めほど手詰りでなくなった。笹村は下町の方から帰って来ると、きっと買いつけの翫具屋《おもちゃや》へ寄って、正一のために変った翫具を見つけた。子供は翫具を持って一人で遊ぶようになっていた。
お銀はそのころまだ長火鉢の抽斗《ひきだし》にしまってあった丸薬を取り出して、時々笹村に見せた。
「あの時のことを思うと、情ないような気がする。」
お銀は目を曇《うる》ませながら、傍に遊んでいる子供の顔を眺めた。
「坊は阿母《おっか》さんが助けてあげたんだよ。大きくなったら、また阿母さんがよく話して聞かしてあげるからね。」
お銀は笹村を厭がらせるような調子で言った。
「あの時のことを忘れないために、この丸薬はいつまでもこうやってしまっておきましょうね。」
「莫迦《ばか》。」笹村は苦笑した。
お銀は胎児のために乳を褫《うば》われようとして、日に日に気のいじけて来る子供のうるささを、少しずつ感じて来た。そして老人《としより》の手に懐《なつ》けさせようとしたが、子供は母親よりもしなやかでない老人の手を嫌った。夜笹村の部屋で寝ようとするお銀の懐へ絡《まつわ》りついて来る子供は、時々老人の側へ持って行かれたが、やはり駄目であった。子供に対して細かしい理解のない老人の手に扱われて泣いている子供の声は、傍に見ている笹村の頭脳《あたま》に針を刺すように響いた。
「お前見たらいいじゃないか。」
笹村はお銀に顔を顰《しか》めたが、長いあいだ襁褓《むつき》の始末などについて、母親に委《まか》しきりにして来たお銀は、そんなことには鈍かった。お銀の体のきまりのつく前と後では、子供に対する父と母の心持は、まるで反対であった。
四十六
お銀の遠縁にあたるという若い画家が一人神田の方にいた。山内というその男と笹村も一、二度どこかで顔を合わして相知っていた。お銀のことを表向きにするについて、笹村は自分のところへ出入りしている山内の従弟《いとこ》の吉村によって、ふと山内のことを思い出させられていた。吉村の家と近しくしていたお銀の父親は、山内の父親とも相識の間柄であった。
春、笹村が幾年ぶりかで帰省する前に、笹村夫婦と山内とは、互いに往来《ゆきき》するほどに接近して来た。
ある晩方年始の礼に来た山内は、ぐでぐでに酔っていた。一度盛んに売り出したことのある山内は、不謹慎な態度から、そのころ一部の人の反感を受けていた。その風評を耳にしていた笹村の頭にも、山内という名はあまりよい印象を遺していなかったが、吉村やお銀の母親から聞かされる山内の家柄や父親のことから推すと、外に現われた山内とまた違った山内が笹村の頭に映って来た。
山内は、お銀がつぐ酒を、黒羽二重の紋附や、ごりごりした袴《はかま》に零《こぼ》しながら、爛《ただ》れたような目をして、やっと坐っていた。杯を持つ手が始終|顫《ふる》えていた。
「画家《えかき》というものは、面白い扮装《なり》をしているもんですね。」と、お銀は山内のよろよろと帰って行った後で言い出した。
「私たちの従姉のお房さんの片づいている、あの人の従兄の神崎も、やはり大酒飲みだそうですよ。」
「あの方のお父さんが、やはりおそろしい酒家《のみて》でね。」母親も杯盤の乱れている座敷へ入って来て話し出した。
「何しろ大きい身上《しんしょう》を飲み潰《つぶ》したくらいの人だもんだでね。大気《だいき》な人で、盛りに遊んでいる時分|温泉場《ゆば》から町へ来るあいだ札《さつ》を撒《ま》いて歩いたという話を聞いているがね。」
笹村夫婦が訪ねて行ったとき、その父親も子息《むすこ》と並んで坐って、始終落ち着かぬような調子で、酒を飲んでいた。口の利き方も、女たちが腹を抱えるような突飛なことが多かった。そして笹村に猪口《ちょく》を差して、
「私は笹村さん、こんな人間ですよ。」といって、愉快そうに笑った。
山内はにやにや笑っていた。
「ああ厭だ厭だ、父子《おやこ》であんなにお酒ばかり飲んで……家の父のことを思い出す。」
お銀は正一の手を引きながら外へ出ると言い出した。
「でも皆ないい人たちですね。東京《こちら》に親戚がないから、人なつかしげで……。」
人のところの世帯ぶりに、すぐ目をつけるお銀は、家へ帰ってからも山内の暮し方を、見透《みすか》して来たように話した。
花の散る時分に、お銀は帰省する笹村の支度を調えるのに忙しかった。四、五年前に帰省した時、笹村はまだ何もしていなかった。身装《みなり》も見すぼらしかった。自分の腹に出来た子の初めての帰省を迎えたその時の母親の不快げな顔が、今でも笹村の頭に深く刻まれていた。
「母のために、少しは着飾って行かなくちゃ……。」
笹村はお銀にも、そんな話をして聞かした。
こまこました土産物などを買い集めるに腐心しているお銀の頭にも、笹村の郷里へ対する不安が始終附き纏《まと》っていた。
「新ちゃんが、ああいう風で帰ってったから、どうせ私なども阿母さんや姉さんによく思われていないに決まっている。」と、時々それを言い出していたお銀は、この機会に出来るだけの好意を示すことを忘れなかった。
新しく仕立てたり、仕立て直したりした幾色かの着物の上に、お銀は下谷から借りて来た欽一《きんいち》の兵児帯《へこおび》なども取り揃えた。
「角帯もいいけれど、これも持っておいでなさいよ。」
欽一はそのころ、その弟と前後して、軍医として戦地へ渡った。
四十七
郷里へ帰って行った笹村は、長くそこに留まっていられなかった。大きな旧城下の荒れた屋敷町の一つに育って来た笹村は、長いあいだ自分の生い立って来た土地の匂いを思い出す隙もないほど、目が始終前の方へ嚮《む》いていたが、そのころ時々幼い折の惨めな自分の姿や、陰鬱《いんうつ》な周囲の空気を振り顧《かえ》るようなことがあった。姉に手をひかれてはじめて歩いてみた珍しい賑やかな町や、近所の女の友達と一緒に蟋蟀《こおろぎ》を取ってあるいた寂しい石垣下の広い空地《あきち》の叢《くさむら》の香、母親の使いで草履の音を忍ばせて、恐る恐る通りぬけて行った、男の友達の頑張っている木蔭の多い、じめじめした細い横町、懶《なま》けものの友達と一緒に、厭な学校の課業のあいだを寝転《ねころ》んでいた公園の蕭《しめや》かな森蔭の芝生――日に日に育って行く正一を見るにつけて、笹村はここ十年来の奮闘に疲れた頭に、しみじみそこのなつかしい空気が嗅ぎしめて見たいような気がした。荒れている父親の墓の前で、今一度|敬虔《けいけん》なそのころの、やさしい心持を味わってみたいと考えた。
そんなことを胸に描いていた笹村は、郊外に建てられた暗い夜のステーションへ降りて行くと、すぐにがさがさした、荒《さび》れたその町に包まれた自分の青年時代の厭な記憶に、面《おもて》を背《そむ》けたいような心持になった。
黙って粗雑な木造の階段から、でこぼこした広い土間に降りて行く群集の下駄の音や、田圃面《たんぼづら》から闇《やみ》を流れて来る一種の臭気、ステーション前の広場の柳の蔭に透して見られる、仮小屋めいた薄暗い旅籠屋《はたごや》、大阪風に赤い提灯《ちょうちん》などを出した両側の飲食店――その間をのろのろした腕車《くるま》で、石高な道を揺られて行く笹村は、はじめて来る新開の町をでも見るような気がした。
檐《のき》の低い家の
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