ったが、ある日暮れ方に、笹村に逐《お》い出されるようにして、そこまで来て彷徨《ぶらぶら》していたこともあった。しかしやはり帰って来ずにはいられなかった。
「失敗《しま》ったね。私|阿母《おっか》さんに来ないように一枚葉書を出しておけばよかった。」
 母親が帰って来そうな朝、お銀は六畳の寝床の上に蚊帳をはずしかけたまま、ぐッたり坐り込んで思案していた。部屋の隅《すみ》には疲れたような蚊の鳴き声が聞えた。笹村もその傍に寝転んでいた。
 帰って来た母親は、着替えもしずに、笹村の傍へ来て堅苦しく坐りながら挨拶をした。そして田舎の水に中《あ》てられて、病気をしたために、帰りの遅くなったいいわけなどをしながら、世のなかにただ一つの力であった一人の弟の死んで行った話などをした。
「親戚《しんせき》は田舎にたくさんござんすが、私の実家《さと》は、これでまア綺麗に死に絶えてしまったようなものだで……。」
 笹村はくすぐったいような心持で、それに応答《うけこたえ》をしていた。そして母親の土産に持って来た果物の罐詰を開けて試みなどしていた。
 二、三日お銀は、あまり笹村の側へ寄らないようにしていたが、いつま
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