らく忘られていた原稿紙を買うと、また新しくその匂いをかぎしめた。
けれど、ざらざらするような下宿の部屋に落ち着いていられなかった笹村は、晩飯の膳《ぜん》を運ぶ女中の草履《ぞうり》の音が、廊下にばたばたするころになると、いらいらするような心持で、ふらりと下宿を出て行った。笹村は、大抵これまで行きつけたような場所へ向いて行ったが、どこへ行っても、以前のような興味を見出さなかった。始終遊びつけた家では、相手の女が二月も以前にそこを出て、根岸《ねぎし》の方に世帯を持っていた。笹村はがらんとしたその楼《うち》の段梯子《だんばしご》を踏むのが慵《ものう》げであった。他の女が占めているその部屋へ入って、長火鉢《ながひばち》の傍へ坐ってみても、なつかしいような気もしないのに失望した。聞きなれたこの里の唄《うた》や、廊下を歩く女の草履の音を聞いても、心に何の響きも与えられなかった。
「山田君が今度建てた家の一つへ、是非君に入って頂きたいんだがね。」と友達に勧められた時、笹村は悦《よろこ》んで承諾した。
二
その家は、笹村が少年時代の学友であって、頭が悪いのでそのころまでも大学に籍をおい
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