うえに坐って、何やら蒔絵《まきえ》をしてある自分持ちの莨盆《たばこぼん》を引き寄せた。そこからは紫だったような東山の円《まる》ッこい背《せなか》が見られた。
「京の舞妓《まいこ》だけは一見しておきたまえ。」友はそれから、新樹の蔭に一片二片《ひとひらふたひら》ずつ残った桜の散るのを眺めながら、言いかけたが、笹村の余裕のない心には、京都というものの匂《にお》いを嗅《か》いでいる隙《ひま》すらなかった。それで二人一緒に家へ還《かえ》ると、妻君が敷いてくれた寝所《ねどこ》へ入って、酔いのさめた寂しい頭を枕につけた。
東京で家を持つまで、笹村は三、四年住み古した旧《もと》の下宿にいた。下宿では古机や本箱がまた物置部屋から取り出されて、口金の錆《さ》びたようなランプが、また毎晩彼の目の前に置かれた。坐りつけた二階のその窓先には楓《かえで》の青葉が初夏の風に戦《そよ》いでいた。
笹村は行きがかり上、これまで係《たずさ》わっていた仕事を、ようやく真面目に考えるような心持になっていた。机のうえには、新しい外国の作が置かれ、新刊の雑誌なども散らかっていた。彼は買いつけのある大きな紙屋の前に立って、しば
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