納めている大学の方をいよいよ罷《や》めて、好きな絵の研究を公然やり出そうかというようなことを、毎日考え込んでいた。父兄の財産によらずに、どうかして洋行するだけの金の儲《もう》けようはないものかなどと思い続けていた。島へ行ってから聖書などに親しみ、政治や戦争などを厭がるようになっていた。思想の毛色も以前より大分変っていた。
「僕は今小説を一つ書きかけているところなんだ。」と、鼻の高い、骨張った顔の相を崩しながら横に半身を起して、くうくう笑った。
 机のうえには、半紙に何やら書きかけたものがあった。T―の頭には、小笠原島で見た漁夫や、漂流の西班牙《スペイン》人や、多勢の雑種《あいのこ》について、小説にして見たいと思うようなものがたくさんあった。笹村のガラクタの中から拾い出して行った「海の労働者」の古本などが側にあった。
 二人はこのごろT―のところへ届いた枝ごとのバナナを手断《ちぎ》りながら、いろいろの話に耽った。薄暗い六畳から台所の横の二畳の方を透《すか》してみると、そこに深山が莨の煙のなかに、これも原稿紙に向っている。傍にパインナップルの罐《かん》や、びしょびしょ茶の零《こぼ》れている
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