余所《よそ》で行き合わせたぎりで、深く話し合ったこともないある画家であったが、用事は笹村が家を持った当座、九州の旅先で懇意になった兄の親類筋に当る医学生が持って来て、少し運んだところで先方から寝返りを打たれた結婚談を復活しないかという相談であった。お銀の舞い込んで来たのは、ちょうど写真などを返して、それに絶望した笹村の頭脳《あたま》が、まだ全く平調に復りきらないころであった。
「今日は不思議な日だね。」いい加減に電話を切って座に復って来た笹村の顔には、興奮の色が見えた。
笹村は破れたその結婚談から、お銀に移るまでの心持の経過を話しながらこうも言った。
「それに、僕は生理的に結婚する資格があるかということも、久しく疑問であったしね……。」
詩人は不幸な友達の話を聞きながら、笑っていた。
六月の初めごろには、M先生は床に就いていたが、就きッきりと言うほどでもなかった。そして寝ながら本の意匠を考えたり、ある人が持って来てくれた外国の新刊物などに目を通していた。中にはオブストロブスキイなどいう人の「ストルム」や、ハウプトマンの二、三の作などがあった。
「△△が是非読んでみろと言うから、目を通して見たけれど、これならさほどに言うほどのものでもない。」
日本一の大家という抱負は、病に臥《ふ》してから一層先生の頭脳に確かめられて来たようであった。「人生の疑義」という翻訳書が、しばらく先生の枕頭《まくらもと》にあった。
「これを読んでごらん、文章もそんなに拙《まず》くはないよ。」
これまで人生問題に没入したことのなかった先生は、ところどころ朱で傍線を引いたその書物を笹村に勧めた。
断片的の話は、おりおり哲学にも触れて行った。周囲の世話を焼くのも、ただ一片の意気からしていた先生は、時々博愛というような語《ことば》も口に上せた。我の強かったこれまでの奮闘生活が先生の弱いこのごろの心に省みられるように思えた。
「己ももう一度思う存分人の世話がしてみたい。」先生は深い目色をしながら呟いた。
病気にいいという白屈菜《くさのおう》という草が、障子を開け払った檐頭《のきさき》に、吊るされてあった。衆《みんな》は毎日暑さを冒して、遠い郊外までそれを採りに出かけた。知らぬ遠国の人から送って来るのもたくさんあった。先生は寝ていながら、干してあるその草の風に戦《そよ》ぐのを、心地よげに眺めていた。
「私は先生に、何か大きいものを一つ書いて頂きたいんですが……。」
これまでそんなものをあまり重んじなかった笹村は、汐《しお》を見て頼んで見た。
先生は、「そうさな、秋にでもなって茶漬けでも食えるようになったら書こう。」と、軽く頷《うなず》いた。
笹村は黙ってうつむいてしまった。
二、三人の人が寄って来ると、先生はいつまでも話に耽った。
「お前はこのごろ何を食っている。」
先生は思い出したように訊《たず》ねた。
「そうでござんすな。格別これというものもありませんですからな。私ア塩辛《しおから》ばかりなめていますんです。」
O氏は揶揄《からか》うように言った。
「笹村は野菜は好きか。」
「慈姑《くわい》ならうまいと思います。」
「そうさな、慈姑はちとうますぎる。」先生は呟いた。
笹村は持って行った金の問題を言い出す折がなくてそのまま引き退《さが》った。
二十五
出産の時期が迫って来ると、笹村は何となく気になって時々家へ帰って見た。しばらく脚気《かっけ》の気味で、足に水気をもっていたお銀は、気懈《けだる》そうに台所の框《かまち》に腰かけて、裾を捲《まく》って裏から来る涼風に当ったり、低い窓の腰に体を持たせたりして、おそろしい初産の日の来るのを考えていた。興奮したような顔が小さく見えて、水々した落着きのない目の底に、一種の光があった。
笹村はいくら努力しても、尨大《ぼうだい》なその原稿のまだ手を入れない部分の少しも減って行かないのを見ると、筆を持つ腕が思わず渋った。下宿の窓のすぐ下には、黝《くろ》い青木の葉が、埃を被って重なり合っていた。乾いたことのない地面からは、土の匂いが鼻に通った。笹村は視力が萎《な》えて来ると、アアと胸で太息《といき》を吐《つ》いて、畳のうえにぴたりと骨ばった背《せなか》を延ばした。そこから廊下を二、三段階段を降りると、さらに離房《はなれ》が二タ間あった。笹村はそこへ入って行って、寝転んで空を見ていることもあった。空には夏らしい乳色の雲が軽く動いていた。差し当った生活の欠陥を埋め合わすために何か自分のものを書くつもりで、その材料を考えようとしたが、そんな気分になれそうもなかった。
往来に水を撒《ま》く時分、笹村は迎えによこした腕車《くるま》で、西日に照りつけられながら、家の方へ帰って行った。窪みにある静かな
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