った。酒も禁じられていた。
 牛込のその下宿は、棟が幾個《いくつ》にも分れて、綺麗な庭などがあったが、下宿人は二人ばかりの紳士と、支那人《しなじん》が一人いるぎりであった。笹村は、机とランプと置時計だけ腕車に載せて、ある日の午後そこへ移って行った。そして立ち木の影の多い庭向きの窓際に机を据えた。

     二十三

 下宿は昼間もシンとしていた。笹村は机の置き場などを幾度も替えて見たり、家を持つまで長いあいだこの近傍の他の下宿にいたころ行きつけた湯へ入りなどして、気を落ち着けようとしたが、旅にいるような心持で、何も手に着かなかった。それで寝転んだり起きたりしていると、もう午《ひる》になって、顔の蒼白い三十ばかりの女中が、膳を運んで来て、黙ってそこらに散らかったものを片着けなどする。膳に向っても、水にでも浸っていたように頭がぼーッとしていて、持ちつけぬ竹の塗り箸《ばし》さえ心持が悪かった。病気を虞《おそ》れるお銀の心着けで、机のなかには箸箱に箸もあったし、飯食い茶碗も紙に包んで持って来たのであったが、それはそのままにしておいた。
 それに生死の境にあるM先生の手助けであるから、仕事をしても報酬が得られるかどうかということも疑問であった。妙な廻り合せで、上草履一つ買えずにいる笹村は、もと下宿にいた時のように気ままに挙動《ふるま》うことすら出来なかった。
 飯がすむと、袋にどっさり貯えおきの胃の薬を飲んで、広い二階へ上って見た。二階には見晴しのいい独立の部屋が幾個《いくつ》もあったが、どちらも明いていた。病身らしい、頬骨《ほおぼね》と鼻が隆《たか》く、目の落ち窪《くぼ》んだ、五十三、四の主《あるじ》の高い姿が、庭の植込みの間に見られた。官吏あがりででもあるらしいその主の声を、笹村は一度も聞いたことがなかった。細君らしい女が二人もあって、時々厚化粧にけばけばしい扮装《なり》をして、客の用事を聞きに来ることのある十八、九の高島田は、どちらの子だか解らなかった。
 飲食店にでもいたことのあるらしい若い女中が、他に二人もいた。そして拭き掃除がすんでしまうと、手摺《てす》りにもたれて、お互いに髪を讃《ほ》め合ったり、櫛《くし》や簪《かんざし》の話をしていた。
「客もいないのに、三人も女がいるなんておかしいね。」笹村はそこらをぶらぶらしながら笑った。
「それアそうですけど、家は一晩二晩の泊り客がちょいちょいありますから……。」
 笹村は階下《した》へ降りて来て、また机の前に坐った。大きな西洋紙に書いた原稿の初めの方が二、三冊机の上にあった。笹村は錘《おもり》のかかったような気を引き立てて、ぽつぽつ筆を加えはじめた。やり始めると惰力で仕事がとにかくしばらくの間は進行した。時とすると、原書を翻《まく》って照合しなどしていた。ふと筆をおいて、疲れた体を後へ引っくら反《かえ》ると、頭がまたいろいろの考えに捉えられて、いつまでも打ち切ることが出来なかった。
 気が餒《う》えきって来ると、笹村はそっとにげるように宿の門を出た。足は自然に家の方へ向いた。
 お銀は寂しい下宿の膳のうえに載せるようなものを台所で煮ていた。
「私今車夫に持たしてやろうと思って……。」
 お銀は暑そうに額の汗を拭きながら、七輪の側を離れた。
 火鉢の傍に坐っていると、ゴーゴーいう鍛冶屋の機械の音が、いつも聞き馴《な》れたように耳に響いた。この音響のない世界へ行くと、笹村はかえって頭が散漫になるような気がした。
 夜おそく笹村は蓋物を提げて下宿へ還《かえ》って行った。そして部屋へ入ってランプを点《つ》けると、机の上の灰皿《はいざら》のなかに、赤い印肉で雅号を捺《お》したM先生の小形の名刺が入れてあった。笹村は、しばらく机に坐ってみたが、じきに火を細くして寝床へ入った。
 上総《かずさ》の方の郷里へ引っ込んでいる知合いの詩人が、旅鞄をさげて、ぶらりと出て来たのはそのころであった。そして泊りつけの日本橋の宿屋の代りに、ここの二階にいることになってから、笹村は三度三度のまずい飯も多少舌に昵《なじ》んで来た。
 中央文壇の情勢を探るために出て来たその詩人は、その時家庭の切迫したある事情の下にあった。自分自分の問題に苦しんでいる二人の間には、話が時々行き違った。

     二十四

 その詩人が、五日ばかりで帰ってしまうと、その時|齎《もたら》して来た結婚談《けっこんばなし》が、笹村の胸に薄い痕迹《こんせき》を留めたきりで、下宿はまた旧《もと》の寂しさに復《かえ》った。
 その結婚談は、詩人と同郷のかなり裕福なある家の娘であった。臥《ね》そべっていながら、その話を聞いていた笹村の胸は、息苦しいようであった。
 話の最中にその時めずらしく、笹村へ電話がかかって来た。かけ手は、笹村が一、二度|
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