た。
笹村はちょっとした女の言い草に、自分の気持を頓挫《しくじ》ると、しばらく萎《な》やされていた女に対する劇《はげ》しい憎悪《ぞうお》の念が、一時にむくむく活《い》き復《かえ》って来た。
お銀は一、二町ついて来たが、やがてすごすごと引き返して行った。
その晩笹村は帰らなかった。
朝家へ入って来ると、女は興奮したような顔をして火鉢の前に坐っていた。甥も傍へ来て火に当っていた。
書斎へ引っ込んでいると、女は嶮《けわ》しい笑顔《えがお》をして入って来た。
「随分ひどいわね。私やたら腹が立ったから、新ちゃんに皆な話してしまった。あなたはあまり新ちゃんのことも言えませんよ。」
「莫迦。少《わか》いものには少し気をつけてものを言え。」
「新ちゃんだって、叔父さんは今夜帰らないって、そう言っていましたわ。昨夜《ゆうべ》はお友達も来ていましたからね。三人で花を引いて、いつまで待っていたか知れやしない。――私ぐんぐん蹤《つ》いて行ってやればよかった。どんな顔して遊んでいるんだか、それが見たくて……。」
「うるさい。」笹村は顔じゅう顰《しか》めた。笑うにも笑えなかった。
日が暮れかかって来ると、鍛冶屋の機械の音が途絶えて、坐っていても頼りないようであった。お銀は惑わしいことがあると、よく御籤《みくじ》を取りに行く近間の稲荷《いなり》へ出かけて行った。通りの賑やかなのに、ここは広々した境内がシンとして、遠い木隠れに金燈籠《かなどうろう》の光がぼんやり光っていた。鈴を引くと、じゃらんじゃらんという音が、四辺《あたり》に響いて、奥の方から小僧が出て来た。
「あなたのも取って来ましたよ。」と、お銀は笹村のを拡げて机の端においた。笹村は心《しん》を細めにしたランプを置いて、火鉢の蔭に丸くなって、臥《ね》そべっていた。
「私は今宙に引っかかっているような身の上なんですってね。家があってないような……いるところに苦労しているんですって。」
笹村は黙ってその文章に読み惚《ほ》れていた。
「私京橋へ行こうか行くまいか、どうしようかしら。」
お銀はBさんという後楯《うしろだて》のついている笹村と、うっかりした相談も出来ないと思った。
「B君の阿母《おっか》さんの説では、一緒になった方がいいと言うんだそうだけれど……。」と言う笹村は、その後もB―と一、二度逢っていた。
晩に笹村は、賑やかな暮の町へ出て見た。そしてふと思いついて、女のために肩掛けを一つ買って戻った。
お銀は嬉しそうにそれを拡げて見ると笑い出した。
「私前に持っていたのは、もっと大きくて光沢《つや》がありましたよ。それにコートだって持ってたんですけれど……叔父さんが病気してから、皆|亡《な》くしてしまいましたわ。」
「そうかい。お前贅沢を言っちゃいかんよ。入《い》らなけア田舎へ送ろう。」
笹村は気色《けしき》をかえた。
二十
春になってから笹村は時々思い立っては引き移るべき貸家を見て行《ある》いた。お銀の体をおくのに、この家の間取りの不適当なことも一つの原因であった。茶の間から通うようになっている厠《かわや》へ客の起つごとに、お銀は物蔭へ隠れていなければならぬ場合がたびたびあった。そのころお銀は京橋の家へ行くことをすっかり思い止まっていた。二階は危いというのも一つの口実であったが、ここを離れてしまえば、後はどうなって行くかという不安が、日増しに初めの決心を鈍らせた。
「……それに私だって、余所《よそ》へ出るとなれば手廻りの世帯道具くらい少しは用意しなけア厭ですもの。いくら何でもあまり見すぼらしいことしてお産をするのは心細うござんすから。」
お銀のこのごろの心には、そこへ身のうえの相談に行ったことすら、軽挙《かるはずみ》のように思われて来た。
「あんな窮屈な二階|住居《ずまい》で、お産が軽ければようござんすけれど、何しろ初産のことですから、どんな間違いがないとも限りませんもの。」
「こればかりは重いにも軽いにもきりがないんですからね。」と、母親も傍から口を利いた。
笹村は黙って火鉢に倚《よ》りかかりながら、まじまじと煙草を喫《ふか》していた。麻の葉の白くぬかれた赤いメリンスの前掛けの紐《ひも》を結《ゆわ》えているお銀の腹のめっきり大きくなって来たのが目についた。水気をもったような顔も、白蝋《はくろう》のように透き徹《とお》って見えた。
「むやみなことをして、万一のことでもあっては、田舎にいるこれの父親や親類のものに私がいいわけがないようなわけでござんすでね。」
そんなことから、笹村は家を捜すことに決めさせられた。
笹村はずッと奥まった方を捜しに出て行った。その辺にはかなり手広な空家がぼつぼつ目に着いたが、周《まわ》りが汚かったり、間取りが思わしくなかったりして
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