つりとしたものが出来るのも不思議であった。明るかった額から目のあたりも一体に曇《うる》んで来た。そして何か考え込みながら、窓から外を眺めている時の横顔などが、その気分と相応《そぐ》わないほど淋しく見られることがあった。
「お産をすると毒は皆おりてしまうそうですよ。」
病気を究《きわ》めようともしないお銀は、大して気にもかけぬらしかったが、どこへどうなって行くとしても、産れる子に負うべき責任だけは笹村も感じないわけに行かなかった。
「それじゃあなたは、自分にそんな覚えでもあるんですか。」お銀は笹村に反問した。
笹村は学校を罷《や》めて、検束のない放浪生活をしていた二十《はたち》時分に、ふとしたことから負わされた小さな傷以来、体中に波うっていた若い血がにわかに頓挫《しくじ》ったような気が、始終していた。頭も頽《くず》れて来たし、懈《だる》い体も次第に蝕《むしば》まれて行くようであった。酒、女、莨、放肆《ほうし》な生活、それらのせいとばかりも思えなかった。そんなものを追おうとする興味すら、やがてそこから漂って来る影に溺《おぼ》れ酔おうとする心に過ぎなかった。太陽の光、色彩に対する感じ――食物の味さえ年一年荒れた舌に失われて行くようであった。
頭脳《あたま》が懈くなって来ると、笹村は手も足も出なかった。そういう時には、かかりつけの按摩《あんま》に、頭顱《あたま》の砕けるほど力まかせに締めつけてもらうよりほかなかった。
「それはこっちの気のせいですよ。」
お銀は顔に出来たものを気にしながらも、医者からくれた薬すらろくろく飲まなかった。
「……逢って話してみましたらばね。」と、お銀は京橋から帰って来た時、待ちかねていた笹村に話しだした。
「そんなことなら二階があいているから、いつでも来てもいいって、そう言ってくれるんですがね。――だけど女ばかりで、そんなことをして、後で莫迦《ばか》を見るようなことでも困るから、よく考えてからにした方がいいって言うんですの。正直な人ですから、やはり心配するんでしょうよ。」
「…………。」
「その人の息子《むすこ》は新聞社へ出ているんですって。」お銀は思い出したように附け加えた。
「へえ。それは記者だろうか、職工だろうか。」
「何ですか、そう言ってましたよ。」
笹村はあまりいい気持がしなかった。
「それで、その二階はごく狭いんですの。天井も低くって厭なところなんです。お産の時にはあなたも来て下さらないと、あんなところで私心細い。」
笹村は黙っていた。お銀は張合いがなさそうに口を噤《つぐ》んだ。
正月に着るものを、お銀はその後また四ツ谷から運んで来た行李の中から引っ張り出して、時々母親と一緒に、茶の室《ま》で針を持っていた。この前に片づくまでに、少しばかりあったものも皆|亡《な》くして行李を開けて見てもちぐはぐのものばかりで心淋しかった。
気がつまって来ると、煙草の煙の籠ったなかに、筆を執っている笹村の傍へ来て、往来向きの窓を開けて外を眺めた。門々にはもう笹たけが立って、向うの酒屋では積み樽《だる》などをして景気を添えていた。兜《かぶと》をきめている労働者の姿なども、暮らしく見られた。熊谷在《くまがやざい》から嫁入って来たという、鬼のような顔をしたそこの内儀さんも、大きな腹をして、帳場へ来ては坐り込んでいた。
十九
笹村は、少し手に入った金で、手詰りのおりにお銀が余所《よそ》から借りて来てくれた金を返さしたり、質物を幾口か整理してもらったりして、残った金で蒲団皮を買いに、お銀と一緒に家を出た。「私たちのは綿が硬くて、とても駄目ですから、今度お金が入ったら、払いの方は少しぐらい延ばしても蒲団を拵えておおきなさいよ。」と、笹村はよくお銀に言われた。
「十年もあんな蒲団に包《くる》まっているなんて、痩《や》せッぽちのくせによく辛抱が出来たもんですね。」
初めて汚い笹村の寝床を延べた時のことが、また言い出された。
「僕はあまりふかふかした蒲団は気味がわるい。」
笹村は笑っていたが、それを言われるたびに、自分では気もつかずに過して来た、長いあいだ満足に足腰を伸ばしたこともない、いきなりな生活が追想《おもいだ》された。そしてやはりその蒲団になつかしみが残っていた。安机、古火鉢、それにもその時々の忘れがたい思い出が刻まれてあった。そのべとべとになった蒲団も、今はこの人たちの手に引つ剥《ぺ》がされて、襤褸屑《ぼろくず》のなかへ突っ込まれることになった。
通りまで来ると、雨がぽつりぽつり落ちて来た。何か話して歩いているうちに、ふと笹村の気が渝《かわ》って来た。
「お前は先へお帰り。」
笹村はずんずん行《ある》き出した。
「それじゃ蒲団地は買わなくてもいいの。」
女は惘《あき》れて立ってい
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