。」
「医者へ行ったかね。」
「え、行きました。そしたら、やはりそうなんですって。」
腕車の上と下とで、こんな話が気忙《きぜわ》しそうに取り交された。
笹村が腕車から降りると、お銀もやがて後から入って来て、火鉢の方へ集まった。
十七
「医者はどういうんだね。」
笹村は少し離れたような心持で、女に訊き出した。笹村はまずそれを確かめたかった。
「お医者はいきなり体を見ると、もう判ったようです。これが病気なものか、確かに妊娠だって笑っているんですもの。それに少し体に毒があるそうですよ。その薬をくれるそうですから……。」
「幾月だって……。」
「四月だそうです。」
「四月。厭になっちまうな。」
笹村は太息《といき》を吐《つ》いた。そしておそろしいような気持で、心のうちに二、三度月を繰って見た。
その晩は一時ごろまで、三人で相談に耽《ふけ》っていた。笹村は出来るだけ穏かに、女から身を退《ひ》いてもらうような話を進めた。その話は二人にもよく受け入れられた。
「あなたの身が立たんとおっしゃれば、どうもしかたのないことと諦《あきら》めるよりほかはござんしねえ。御心配なさるのを見ていても、何だかお気の毒のようで……。」母親は縫物を前に置きながら言った。
「どうせ娘《これ》のことは、体さえ軽くなればどうにでもなって行きますで。」
そう決まると笹村は一刻も速く、この重荷を卸《おろ》してしまいたかった。そして軽卒《かるはずみ》のようなおそろしい相談が、どうかすると三人の間に囁《ささや》かれるのであった。笹村の興奮したような目が、異様に輝いて来た。
「そうなれば、私がまたどうにでも始末をします。――そのくらいのことは私がしますで。」
そう言う母親の目も冴《さ》え冴《ざ》えして来た。
「だけどうっかりしたことは出来ませんよ。」お銀は不安らしく考え込んでいた。
「なアに、めったに案じることはない。」
明朝《あした》目がさめると、昨夜《ゆうべ》張り詰めていたような笹村の心持が、まただらけたようになっていた。頭も一層重苦しく淀《よど》んでいた。昨夜|逸《はず》んだような心持で母親の言い出したことを考え出すとおかしいようでもあった。
笹村は何も手につかなかった。そして究《つま》るところは、やはり昨夜話したようにするよりほかなさそうに考えられた。
「産れて来る子供の顔が、平気で見ていられそうもないからね。」
笹村は、冴え冴えした声でいつに変らず裏で地主の大工の内儀《かみ》さんと話していたお銀が入って来ると、じきに捉《つかま》えてその問題を担ぎ出した。
「そうやっておけば、一日ましに形が出来て行くばかりじゃないか。」
「え、そうですけれど……。」
お銀はただ笑っていた。
「今朝は何だかこう動くような気がしますの。」
お銀は腹へ手を当てて、揶揄《からか》うような目をした。
「だけど、そう一時に思いつめなくてもいいじゃありませんか。あなたはそうなんですね。」
お銀は不思議そうに笹村の顔を見ていた。
気がくさくさして来ると、お銀は下谷の親類の家へ遊びに行った。
「今日は一つ小使いを儲《もう》けて来よう。」と言って化粧などして出て行った。
親類のうちでは、いつでも二、三人の花の相手が集まった。「兄さん」のお袋に友達、近所に囲われている商売人あがりの妾などがいた。お銀はその人たちのなかへ交って、浮き浮きした調子で花を引いた。そこで磯谷の噂なども、ちょいちょい耳に挟《はさ》んだ。
「お前も何だぞえ、そういつもぶらぶらしていないで、また前のような失錯《まちがい》のないうちに田舎へでも行って体を固めた方がいいぞえ。」
そこのお婆さんは顔さえ見ると言っていたが、お銀はどちらへ転んでも親戚の厄介《やっかい》になぞなりたくないと思っていた。どんなに困っても家のない田舎へなぞ行こうと思わなかった。
十八
暮に産をする間の隠れ場所を取り決めに、京橋の知合いの方へ出かけて行ったお銀は、年が変ってもやはり笹村の家に閉じ籠《こも》っていた。
笹村にせつかれて、菓子折などを持って出かけて行くまでには、お銀は幾度も躊躇《ちゅうちょ》した。丸薬なども買わせられて、笹村の目の前で飲むことを勧められたが、お銀は売薬に信用がおけなかった。「そのうち飲みますよ。」と、そのまま火鉢のなかにしまっておいた。薬好きな笹村は、始終いろいろな薬を机の抽斗に絶やさなかった。知合いの医者から無理に拵えてもらったのもあるし、その時々の体の状態を自分自身で考えて、それに応じて薬種屋から買って来たのもある。それにお銀の体に毒気があるということを聞いてからは、一層自分の体に不安が増して来た。血色は薄いが、皮膚だけは綺麗であったお銀の顔に、このごろ時々自分と同じような、ぼ
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