から言いませんでしたがね。」お銀は笹村に言い告げた。
「その時も、あの連中につれられて行ったようですよ。あの中には、髭《ひげ》の生えた人なんかいるんですもの。それに新ちゃんは乱暴も乱暴なんです。喧嘩《けんか》ッぱやいと来たら大変なもんですよ。国で、気に喰わない先生を取って投げたなんて言ってますよ。」
 お銀は甥が、この近所で近ごろ評判になっていることを詳しく話した。
「だけど、なにしろ友達が悪いんですからね。あなたもあまり厳《きび》しく言うのはお休《よ》しなさいよ。おっかないから。」
 笹村の小さい心臓は、この異腹《はらちがい》の姉の愛児のことについても、少からず悩まされた。
「僕もあまりよいことはして見せていないからね。」笹村は苦笑した。
「だって、十六やそこいらで、色気のある気遣いはないんですからね。」
 笹村はしばらく打ち絶えていた俳友の一人から、ある夕方ふと手紙を受け取った。少しお話したいこともあるから、手隙《てすき》のおり来てくれないかという親展書であった。
 お銀は、体の工合が一層悪くなっていた。目が始終|曇《うる》んで、手足も気懈《けだる》そうであった。その晩も、近所の婦人科の医者へ行って診てもらうはずであったが、それすら億劫《おっくう》がって出遅れをしていた。
「私のこと……。」
 お銀は手紙を読んでいる笹村の顔色で、すぐにそれと察した。
「きっとそうでしょう。」

     十六

 笹村は、寒い雨のぼそぼそ降る中を、腕車《くるま》で谷中へ出かけて行った。この日ごろ、交友をおのずから避けるようにして来た笹村は、あの窪《くぼ》っためにある暗い穴のような家を、めったに出ることがなかった。これまで人の前でうつむいて物を言わなければならぬようなことのなかった笹村は、八方から遠寄せに押し寄せているような圧迫の決潰口《けっかいぐち》とも見られる友人が、どんな風にこのことを切り出すか、それが不安でならなかった。深山と気脈の通じているらしく思えるこの俳友B―に対する軽い反抗心も、腕車《くるま》に揺られる息苦しいような胸にかすかに波うっていた。
 ひっそりした二階の一室に通ると、B―は口元をにこにこしながら、じきに深山とのことを言い出した。しばらくB―は笹村の話に耳傾けていた。
 二人の間には、チリの鍋などが火鉢にかけられて、B―は時々笹村に酌をしながら喙《くち》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、195−下−22]《はさ》んでいた。
「……とにかく深山のことはあまり言わんようにしていたまえ。そうしないとかえって君自身を傷つけるようなもんだからね。」B―は戒めるように言った。
 笹村は深山との長い交遊について、胸にぶすぶす燻《くすぶ》っているような余憤があったが、それを言えば言うだけ、自分が小さくなるように思えるのが浅ましかった。
「……僕はいっそ公然と結婚しようと思う。」
 女の話が出たとき、笹村は張り詰めたような心持で言い出した。
「その方がいさぎよいと思う。」
「それまでにする必要はないよ。」B―は微笑を目元に浮べて、「君の考えているほど、むつかしい問題じゃあるまいと思うがね。女さえ処分してしまえば、後は見やすいよ。人の噂も七十五日というからね。」
「どうだね、やるなら今のうちだよ。僕及ばずながら心配してみようじゃないか。」B―は促すように言った。
 笹村はこれまで誰にも守っていた沈黙の苦痛が、いくらか弛《ゆる》んで来たような気がした。そしていつにない安易を感じた。それで話が女の体の異常なことにまで及ぶと、そんなことを案外平気で打ち明けられるのが、不思議なようでもあり、惨《いた》ましい恥辱のようでもあった。
「へえ、そうかね。」
 B―は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、196−上−23]《みは》ったが、口へは出さなかった。そしてしばらく考えていた。
「それならそれで、話は自然身軽になってからのことにしなければならんがね。しかしいいよ、方法はいくらもあるよ。」
 蕭《しめや》かな話が、しばらく続いていた。動物園で猛獣の唸《うな》る声などが、時々聞えて、雨の小歇《こや》んだ外は静かに更けていた。
「僕はまた君が、そんなことはないと言って怒るかと思って、実は心配していたんだよ。打ち明けてくれて僕も嬉しい。」
 帰りがけに、B―はそう言ってまた一ト銚子|階下《した》へいいつけた。
 幌《ほろ》を弾《は》ねた笹村の腕車《くるま》が、泥濘《ぬかるみ》の深い町の入口を行き悩んでいた。空には暗く雨雲が垂れ下って、屋並みの低い町筋には、湯帰りの職人の姿などが見られた。
「今帰ったんですか。」
 腕車と擦れ違いに声をかけたのは、青ッぽい双子《ふたこ》の着物を着たお銀であった。
「どうでした
前へ 次へ
全62ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング